ロートルポテンシャルパワー (18)~シリーズ「具体」その11~/「花形文化通信」No.52/1993年9月1日/上前智祐 「緻密な絵」アクション・ペインティングが第一線であった「具体」だが、その回顧展で一堂に会した作品群をみる時、スピード感や思いつきだけの浮き足だった集団ではなかったという印象を受ける。それは、吉原治良が行為そのものより、タブローを重視していたからということであろうが、その点で、この人の絵の存在が重要な位置を占めてくる。緻密に描かれた点々が幾層にも積み重ねられ、まるで織られたかのような絵画は、明らかに手間ひまがかけられ、地に足がついている。それが、一瞬にして描かれた絵を並ぶと、展覧会全体に妙に落ち着きをかもす。

「もっとアホなことせなアカンで、と他のメンバーから言われたんですけど、ようついていかん」地味な彼の作風は、「具体」結成から解散まで一切のパフォーマンスやアクションによる絵画はやらなかった。野外展などは不得意であり、作品を持っていってもよく外された。’55年の忘年会では「ゼロ点の上前さん、その心は零点ばかりもらっている具体展」などと笑われたそうだ。

点々と描いた油絵、あるいは絵の具を塗って塗って重ねて点々とはぎとっていった絵、15貫俵(約60kg)のマッチ棒一本一本を絵の具でくっつけた厚い絵、細かい木片を組み合わせた作品、千人針のような波縫いで構成された絵など、彼の作品は一貫して職人気質な手仕事を思わせるが、これについては彼は次のようにいう。

「短絡的な言い方をすると、子供のころ奉公に出されて習った針仕事がつながっているんです」と。そして、その丁稚奉公に続く彼の人生は、あまりに凄まじかった。’20年丹後の漁村、伊根に生まれ、翌年、詩人の父と死別。韓国人で炭焼きをしていた養父と山で幼年期を過ごすが、この頃耳を患い後年難聴になる。6才の時大地震にあい90才の巫子に奇跡的に助けられ、11才の時、行者と住むが寒中に冷水をあびせられたり線香灰をごはんに混ぜられたりし、計6回の転校を経て、小学校卒業と同時に丁稚奉公に出た。洗い張り店で夜遅くまで縫い物をし、重い脚気となったが、この頃絵に出合い、南画の通信教育を受ける。18才の時に血を吐き倒れた時には焼場まで行ったが焼場で意識を回復した。そして家出。神戸港で沖仲仕をした後横浜へ。賭博に手を出し落ち目の一途。憲兵に旅費を借り徴兵検査のため母の許に戻る。20才だった。舞鶴海軍で堅気の仕事に就き、再び美術を学ぶ。終戦は八丈島で迎えた。舞鶴で肖像画を描き、47年に二紀会に入選、京都の街で抽象画に出合い、都会に出た。神戸の川崎重工に就職。3年後吉原治良に絵を見てもらいにいった。

他にも通勤の時に電車のドアにはさまり途中で電柱にぶつかり転落し重傷をおったり、作業中瞳に破片がささったり、シンナー爆発で顔を焼いたり、胃炎になったり、その後くも膜下出血や白内障にもなった。

しかし、驚くのは彼は具体に参加している間もクレーンで働く工員だったことである。そしてさらに力強いのは、彼が現在その頃撮り溜めた工場の写真を本に編集していることである。

「ほんまのこと言うと、野外展なんか、この工場の迫力に比べたら、ちっちゃいことやとその時思ってたんです」。人生そのものがアクションであった彼にとって、パフォーマンスなど、つまらぬものだったのかもしれない。

文・写真 塚村真美

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