ぞうさんから始めよう
作者の名前は知らなくても、團伊玖磨作曲のメロディーとあいまって、小さな子どもも含めて誰でも次の詩を口ずさめるだろう。
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ
ぞうさん
ぞうさん
だれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ

まどみちおの詩はいずれも『まど・みちお全詩集』伊藤英治 編(理論社)1992年初版より引用。(新訂版はこちら「理論社」へ)
この詩の作者は、まどみちお、本名 石田道雄。明治42年(1909年)生まれ、亡くなったのは平成26年(2014年)で、104歳だった。山口県徳山町(のち市となり、現在は周南市)に生まれ、父が仕事の都合で台湾へ渡り、まどが5歳の時、母がまどの兄・妹と台湾へ。それで、4年ほど祖父と二人で暮らす。その後まども台湾へ。台北工業学校土木科を卒業、作詞は20代から始め、25歳でその才を北原白秋に認められる。結婚後、召集を受け帝国陸軍の一員として在台湾の部隊に入隊。各地を転戦し、終戦後、日本に戻り、出版社に入社。子どもの雑誌の創刊にかかわり、編集やカットを担当し、一方で詩や童謡を発表していた。1959年退社し、フリーの立場で、詩・童謡さらに絵画にも意欲的に取り組む。その後の活躍については、折にふれて……。
さて、「ぞうさん」の詩に戻ると、そんなに難しくないので、これを英語にしてみるのは簡単にできそうに思われる。頭の中でいいのでやってみよう。

『えいご・まどさん Mado Michio /Selected Poems 』まどみちお著、William Elliottと西原克政
さて、これが正解ですという意味で紹介するのではないが、英訳が、出版されているので、——Mado Michio /Selected Poems (童話社刊)、William Elliottと西原克政による——を見ると——
Little Elephant
Elephant,
Elephant,
you’ve got a long trunk, haven’t you?
Yes,
my mom’s got a long trunk, too.
Elephant,
Elephant,
Whom do you like?
Well,
I like my mom.
“you’ve got”のところは、省略をならすとyou have gotで(なお、次行の、“my mom’s got”はmy mom has got)、中学一年で習った“you have”でもよいが、gotを入れたこちらは口語表現で、リズムが出るし、話し言葉らしくなる。さて、次に「へーえ、象の鼻は、noseではなくtrunkか」ということになろう。本来、“trunk”は「木の幹」を指し、そういえば、見た目そっくり、なるほど……
そして、“my mom”のところで、「あれ」と思った人もいるかもしれない。というのは“my”と入ると、これは声をかけられた子どもの象が自分のお母さん象のことを言っていることになる。日本語で見る限り、ここはお母さん象自身が出てきて、「母さん、つまり自分の鼻も長い」と言っているとも読めるので、そう読んでいると、子象の発言というのが新鮮かもしれない。
そもそも声をかけたのは誰か。こども?男の子?女の子? 私は「~のね」「~のよ」から女の子のイメージだったが、これは男の子も言う表現だとのことで、そうなると限定はできない。そして、子どもとも限らないということも言える。さらに、象に直接呼びかけるわけではなく、象を見て心の中で浮かんだ、象への思いかもしれない。
まどさんの友人に、阪田寛夫さんがおられる(注1)。これもよく知られた「ねこふんじゃった」「さっちゃん」「おなかの へるうた」などの童謡を書いた詩人である。「ぞうさん」の詩が広まって、さまざまな人が解釈を書くようになり、阪田さんが、この詩に「意味」があることがのみ込めないでいると、まどさんが「この詩はたぶんこういう風に受け取ってもらいたがっているだろう、ということを教えてくださった」とのこと——
ぞうの子は、鼻がながいねと悪口を言われた時に、しょげたり腹を立てたりする代りに、一番好きなかあさんも長いのよ、と誇りを持って答えた。それは、ぞうがぞうとして生かされていることが、すばらしいと思っているからです。だから、この歌は、ぞうに生まれてうれしいぞうの歌、と思われたがっているでしょう。
阪田寛夫著『まどさんのうた』(童話屋刊)より
作者自身が「この歌はこうです」というのではなく「この歌はこう思われたがっているでしょう」というのが、面白い。

『まどさんのうた』(阪田寛夫 著, 童話屋)
そこで、私はこの文を読んで、こうも読めるのではないかとさらなる空想を働かせて、1番から2番までの歌詞を続けて考えてみた——鼻が長いと言われて、黙り込んでしまった小象を見て、お母さん象が、悪口を言った人、それから小象に対して言い聞かせるように、お母さんの鼻も長いと言った。母象のやさしさに勇気を得て、さらなる2番目の問いがあった時、今度は自分で、心から、お母さん大好きと答えた……
作者自身によれば悪口だそうだが、しかし、そもそも「お鼻が長い」と言ったのは悪口なのか。長いと驚いた、讃嘆したのではないか、特に初めて動物園に行って、(それまで絵本で知っていた場合にしても、実際に)象を見たような子どもなら。
まどさんの説明を聞いても阪田さんはのみ込めないでいて「目の色が違っても、髪の色が違ってても、みんな仲よくしよう、などとよく言われますけれども」と言うと、まどさん曰く
私はそうではなくて、目の色が違うから、肌の色が違うから、すばらしい。違うから、仲よくしようというんです。
『まどさんのうた』より
これ以来、阪田さんは、まどさんの作品を読み直し、小さいときからの暮らし、考えてきたことを、会うたびに教えられることになる。経歴にあったように、まどさんは台湾にいたことがあり、ある時、阪田さんは台湾の人の口から、「当時、台湾の人を相手にしなかった日本人の中で石田さん(まどさんの本名)はわけへだてがなかった」と、聞く。それは「ほとんど叫ばんばかりの熱のこもった言葉」だった。そして、阪田さんは続ける。
私は「ぞうさん」の歌が、やはりずっとはるかなところからこの世へ届けられた贈り物であることを、まるで叱られるような思いでたしかめたのだった。
『まどさんのうた』より
一つの小さな童謡から、こんなところまできた……こんなふうにいろいろに読めるところが、詩の面白さ・楽しさで、紹介したまどさんの言葉も、作者だからと、それだけが正しいと読む必要もないので、いろいろに読んでみて、それをいろいろな人と分かち合うのも楽しい。そして、改めて考えてみると、誰から誰の発言?その意味は?とかいうことになったのだが、また、そうしたいろいろな読みにとらわれず、読み方を限定せず、ふわっとこの詩の世界に入っているだけの境地に戻ってみるのも楽しい。

『どうぶつたち―THE ANIMALS』まどみちお 詩、美智子 選・訳、安野光雅 絵(すえもりブックス)
さて、英訳について話を戻そう。というのも、実は、出版されている、もう一つの英訳があるからである。それは、上皇后美智子さまによるもので、いくつかのまどさんの詩の英訳を集められた『どうぶつたち』(すえもりブックス)の中にある。
美智子さまの訳が世に出たのは、当時の国際児童図書評議会(IBBY)の会長、島 多代さんの尽力によるものだった。そして、この英訳本が出るまで、日本国外では詩人まどみちおはほとんど知られていなかった。しかし、この出版を背景に、1994年に、国際アンデルセン賞作家賞を受賞することになった。この賞は先ほどのIBBY主催になるもので、“児童文学のノーベル賞”とまで言われていて、作家賞は日本人では初めてのこと、絵のようにそのまま伝わる(といっても、それでもいろいろ問題はある)のと違って、まして翻訳を通さねばならない文学、特に詩の場合の受賞は快挙といえよう。その美智子さまの訳——
LITTLE ELEPHANT
“Little elephant,
Little elephant,
What a long nose you have,”
“Sure it’s long.
So is my mommy’s.”
“Little elephant,
Little elephant,
Tell me who you like.”
“I like mommy.
I like her the best.”
この訳から、またいろいろな発見があって興味深い。まず、Elliott・西原訳ではタイトルだけに入っていたが、ここでは、子象への呼びかけとして”little”が入っていること——かわいいという気持ちが呼びかけにも込もっている。
そして、「なんと長い鼻を持っていることか」と感嘆している、なんと長いお鼻なのかと。この感嘆の気持ちが、鼻をさすとき、“trunk”でなく、“nose”が使われていることにつながっている。子どもにとって、自分の鼻と同じ「鼻」と呼ばれる顔の真ん中のものが、こんなに長いのかとびっくりしているのであり、別の単語“trunk”なら、お鼻のかたちや長さが違って当然で、驚きは少ないことになってしまう。そして、「そうよ」は“yes”であるだけでなく、その長いことを強く肯定し、繰り返す“Sure it‘s long.”となり、この表現を生かして次行は、My mommy’s (nose) is so(=long)となり、このままだと上と同じ形で単調になるのと、長いことを強調するために“so”が一番前にきて、そのために倒置が起こり、あと動詞、主語の順、“So is my mommy’s”となっている。
2番は、「誰が好きなの」という質問が「誰が好きか言って」という(やさしい)命令文になっている。文法に厳しく従うとここは“whom you like”だが、口語の“who”で話し言葉らしさを出している。2番でも1番と同じく「そうよ」を簡単に“yes”としてしまわずに丁寧に説明し、次行もそれを繰り返して、1番では避けた、同じ形の繰り返しをあえてすることで、最後の“the most”(いちばん、いっとう)を効かせて、子象がいかにお母さんが好きかを印象付ける。
お次はやぎさん
これも團伊玖磨の曲と共に(注2)知られている「やぎさん ゆうびん」。まず元の詩から——
しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの おてがみ
ごようじ なあに
くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの おてがみ
ごようじ なあに
さて、英訳はできたでしょうか。では、またElliott・西原訳を見てみよう。
Goat’s Letters
A letter arrived from White Goat.
Black Goat ate it without reading it,
and wrote a reply because he had no other choice.
―What business is contained
in your letter?
The letter arrived from White Goat.
White Goat ate it without reading it,
and wrote a reply because he had no other choice.
―What business is contained
in your letter?
「しかたがないので」の箇所、英訳を見ると、なるほどシンプルにこう言えるのかと納得。「ごようじなあに」は、What business was in your letter? でもいいが、ていねいに“contained” (含まれている、入っている)としている。それと、日本語に冠詞はないので、1番の最初は、“A”となっていて、2番は“The”であるところ、英語にしてみるとき、なかなか使い分けられないと思われる。最初は、ある日一通の手紙がふっと来たという感があり、次は、「しろやぎさんが書いたその手紙」と限定されているのである(注3)。
さて、この英訳を見て、訳しきれていない箇所があるのに気がつかれただろうか。
そう、2行目の「たら」である。このわずか2字に込められたのは「(しろやぎさんは)困ったことに」という感じであろうか。しかしこれを訳すと重くなってしまい「たら」の軽さはない。それと「〇〇ちゃんったら」という時は、相手を想定して明らかになじっている、それも親しみを込めて。だから、訳ではこれほど深い含蓄をさっぱりと諦めた形になっている。つまり、訳していない。その言語が持つ独特の表現はあって、微妙な日本語の味、しかもこの場合、ほんの些細な口語表現にも味があることは、英訳することで浮かび上がってくる。
この詩の場合、最初の3行は、みな、8音・4音・3音と数が合っていてリズムがあり、さらに「たら(tara)」は前行の「から(kara)」と音が合い(つまり韻を踏んでいる)、3行各行の終わりは「た」で統一されていて、これも韻を踏んでいる。この、日本語の過去形が「~た」で終わることは、作家泣かせで、つい文が「~た。~た。~た。」となり単調になってしまう。しかし、この詩は、それをうまく使って、リズムを出しているところにも工夫がある。
本当にさりげなく見えているが、上記のような工夫が見られる。この詩は最初の稿から、現在のものになるまで実に13年かかっている——ということからだけでも、そう簡単にできたものでないことがわかるだろう。最初は親子の対話で、やぎの鳴き声の入ったものなどを経て、余計なものをみな捨てたのである。再び、阪田さんの言葉を聞いてみよう。
……「無限のくりかえし」という大事なすじ立てだけが、くっきり残るようにした。それでかえって、おかしさが出た。
だがもし、よまずにたべた、やぎさんたちが、わざと承知で、そうしているとすれば? そして、そのまま食べ続けて、とまらなくなったら、どうなるか? 作者の手から離れて、しろやぎさんとくろやぎさんは、わが国の文芸史上に残る、トリックスター的存在になりかけている。
まどさんが、気がすむまで直してくれたおかげだ。
『まどさんのうた』より
作品は作者の手を離れて、いろいろに読まれていき、それが楽しいと先ほど書いた。それで、阪田さんの読みは、それはそれで面白く、高尚なのだが、少々哲学的すぎると思う。それで、あえてちょっと逆の読みをしてみた。私はこれはしろやぎさんとくろやぎさんの仲良しぶりが描かれている、温かいユーモアが感じられる詩と読んだ。漫才でこの詩を材料に、「読まずに食べたのに、なんでしろやぎさんからの手紙とわかったんや」と言って笑いを取るネタがある。でも、仲良しなので「ああ、手紙をくれるのは、しろやぎさんだ」とわかっているのではないかと思われる。「ごようじなあに」もそんなにせっぱつまっていない、ゆったりとのんきな時間が流れていて、たいしたことは書いてないのだろうということも、お互いわかっているような気がする。「無限のくりかえし」というのは、シュールで魅惑的だが、やぎさんたちは数回のやり取りの後、出会って、二匹でアハハとなるのでは……?

葉書にスタンプとヤギさんたちの世界は広がる
三匹目はうさぎ
うさぎ
うさぎに うまれて
うれしい うさぎ
はねても
はねても
はねても
はねても
うさぎで なくなりゃしない
うさぎに うまれて
うれしい うさぎ
とんでも
とんでも
とんでも
とんでも
くさはら なくなりゃしない
英訳はできましたか。Elliott・西原訳を見てみると——
Rabbit
It’s delightful for a rabbit
to be born a rabbit.
However often
it may jump,
leap,
or spring,
a rabbit is a rabbit.
It’s delightful for a rabbit
to be born a rabbit.
However often
it may jump,
leap,
or spring,
The field won’t disappear.
「うさぎに/うまれて/うれしい/うさぎ」というのは、「ぞうさん」で、まどさん自身が「ぞうに生まれてうれしいぞう」と述べていたのとつながる。この詩は声に出して詠んでみてこそいっそう楽しくなる——最初の4つの「う」の繰り返し(これは頭韻)、そして1番の「はねても」、2番の「とんでも」の繰り返し、1・2番の最後の行の「なくなりゃしない」が同じ——とリズムにあふれていて、うさぎと一緒にはねたり跳んだりしそう。
さて、英語の方は“It is ~ for A to …” (Aにとって…は~です)という構文通り。
「はねても」は繰り返されず、英語では“jum” “leap” “spring”と3つ、同じ意味の違う単語が使われている。これは英語では同じ単語の繰り返しは避けるという習慣というか決まりのようなものがあるからである。例えば同じ文、パラグラフの中に、「芭蕉」という言葉が何度も出てくる時は、繰り返さずに、「俳人」とか「師」とか言い換えるのである。
1番の「はねても」に対して2番では「とんでも」が使われているのに、英語では別の単語にせず、4行は、1番のままにしていることで、繰り返しの効果を別の形で提示していることになる。このように、翻訳というのは、ただ言葉を置き換えていくだけの作業ではなく、元の言語の効果を別の言語ではどのような形で表すかも考えねばならない。
最終行で、日本語は「なくなりゃしない」と1番・2番同じなのに、英語はまったく違う。ここで、違う概念を同じ表現で表した詩人の深いたくらみに行き当たる。2番は、くさはらのある・なし、つまりくさはらという存在があるかないか、それに対し、1番はうさぎの存在のある・なし、つまりうさぎがいるかいないかではなくて、「うさぎであること」の是非を言っているのである。それで、1番の英語は(うさぎであることがなくなりはしない)→「うさぎはうさぎである」となっていて、2番は「くさはらは消えてはしまわない」となっているのである。つまり、阪田さんが思わず哲学的になってしまったのも無理はなくて、まどさんはさりげなく、哲学的なことをうたっている詩人なのである。
この詩についての阪田さんのご意見は——
なんときれいに並んだ、ひらがなだろう。
はじめはもっとたくさん言葉があったのかもしれないが、余計な文字を、一つ、また一つ、けずり捨てていくうちに、とうとう、しみひとつもなくなった。まるで、「ウサギ」の化学構造のようだ。(中略)
では、ここには何があるか。ここにはまどさんの「てつがく」があると、私は思う。てつがくだから、色やにおいはもちろん、長さも重さも、注意深く言葉に置きかえ、それでいて、投げつけるとカチッと音がするほどりんかくがはっきりしている。(中略)
まどさんのてつがくにかかると、野原とうさぎが、どこまで行ってもごじゃごじゃにまざったりしない。「質量不変の法則」と、「遠近法」という、名前はむずかしいけれども、学校へ行かないうさぎにもよくわかっている法則を、完全に守りながら、しかも自由に放たれている。はずんで、はずんで、しかも美しい。
『まどさんのうた』より
おーい、阪田さん、そこまで行っちゃう? でも、さし絵に化学式の六角の亀の甲の中に、うさぎの目鼻と口そして、上に耳二つが描かれているのがかわいいので、それに免じて許してあげる(?)ことに……。
4つ目は——動物を離れて「リンゴ」
今度は、まず英語を見て、これを日本語にしてみよう——
The Apple
When an apple
is placed here
the size of
this apple
is right
for this apple.
Here is
one apple
Nothing else
is here.
Ah, here
existence
and absence
are brilliantly
one.
正に、存在/非存在の“哲学”的な詩(注4)。しかし、言葉の上ではそれほど難しくなくて、次にあげる、まどさんの元の詩とそれほど違わない日本語になったのではないだろうか。
リンゴを ひとつ
ここに おくと
りんごの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ
りんごが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない
ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ
2連3行目の“right”は「まさに」「ぴったり」という感じで、存在がその場を満たしているような「いっぱい」という日本語は出てこないだろう。最後の連で、英語ではすっきりと名詞にして“existence/absence”(存在/非存在、または不在)となっているところ、このような抽象的な、すぐ哲学用語にもなる言葉ではなく、まどさんは「あること/ないこと」と平易な言葉で表現している(注5)。
「まぶしいようにぴったりだ」という最後の2行は、この詩のポイントとなっていて、“brilliantly one”(輝かしい一つ)では表現しきれない、ふくらみ・ふくみを持っているのではないか。例えば、「まぶしい」というのは、輝かしいものを前にして、それをまともに見ることができない、人の受け入れられることを超えているというほどの讃嘆の状態といえるのではないか。「ぴったり」も「ぴったり一つにまじりあう」でもあり「ぴったり同じ」でもあり「ぴったりお互いにふさわしい」でもある。詩だからこそ、この 日本語の表現を味わいたい。
さて、大いに「哲学」するかと思いきや、阪田さんは及び腰(?)である。
まどさんの「リンゴ」の詩が好き、という人が多い。読むものにとっても、にがての詩と、とくいの詩があって、「リンゴ」は私にとっては、むずかしい方に入る。しかし(中略)にがてだからと、「リンゴ」をほうっておいていいはずがない。(中略)
りんごはそこにしっかりとあるモノなので、空気でさえも、かんたんには中にはいりこめないし、まして代りををつとめたりできないのである。——そこまではわかった。(中略)
ふつう、ひとは人間の目からモノを見る。まどさんはモノの目でモノを見てしまう。(中略)
「あることと、ないことが、まぶしいように、ぴったりだ」という、まどさんのてつがくも、その、モノの目から始まったのだ。きっと大事なことがそこにはあるはずだ。
『まどさんのうた』より
最後の詩は、また動物に戻って、クジャクの登場
クジャク
ひろげた はねの
まんなかで
クジャクが ふんすいに
なりました
さらさらさらと
まわりに まいて すてた
ほうせきを 見てください
いま
やさしい こころの ほかには
なんにも もたないで
うつくしく
やせて 立っています
Elliott・西原訳
A Peacock
Amidst
extended wings
a peacock becomes
a fountain:
Look at the jewels
I have scattered out
before you.
Now I’ve nothing but
a tender heart
as I stand here,
slender, beautiful.
この訳で、目立つ箇所は、「見てください」とあるので、それ以下、クジャクを3人称で描くのではなく1人称の「私」になっているところだろう。上皇后美智子さま訳は、素直な流れで、そのまま3人称となっている。
A PEACOCK
At the center
Of the widely spread feathers,
The peacock has become a fountain.
Look at all those jewels
He’s jetted and given away,
Strewing them all around.
Now with nothing left for himself
But his loving heart,
The peacock stands
Beautiful
And slim.
この詩を4年生に初めて読ませた「研究授業」をまどさんは見せてもらい、どう感じたか答えさせたのを、手帳にメモしてきた——やさしい、きれいがそれぞれ10人ほど、かわいそう、しずか、すずしいが2、3人、くるしい、かなしいが1人ずつ。
ひとりでふたつの答えを言った子もいるが、その中で、かなしい、かわいそう、くるしい、にまどさんは感動を受けた。
阪田さんが続いて引くまどさんの言葉——
この詩の作者は、自分にはできないようなきれいごとを書いている。どんな人でも宝石は捨てたくないし、逆に落ちていれば拾いたい。かなしいと思った子も、理想とかけはなれた生き方をしている人間というものを、子どもなりに無意識に感じ合わせたのではないでしょうか、と——。
『まどさんのうた』より
「まわりに まいて すてた/ほうせき」というところ、美智子さま訳では、はっきり“given away”「捨てた、誰かにあげた」となっているが、Elliott・西原訳の“scattered out/ before you”「目の前にばらまいた」とあるだけで捨てた感じは強くない、逆に、見せびらかしている感もある。特に“before you”(あなたの目の前に)と限定されているだけに。次に「ほかには/なんにも もたないで」とあるので、これらの宝石を捨てたことはわかるのだが。
ここは、クジャクが自分の美しい羽根、その中でも特に、いわゆる目と言われている箇所をばらまくというのだろうが、それが宝石になっているところが、童謡の世界の不思議なところ。ここで、私は、ワイルドの童話『幸福の王子』で、自分の銅像の体についている宝石をツバメによって貧しい家に運ばせ、最後は自分がボロボロになってしまう姿を見る。さらには、最後の「やせて」で「かわいそう」「かなしい」「くるしい」につながるのだと思う。英訳の、”slender”、”slim”はいずれも、すらっとしているという感じで、それは当然「やせて」いるからなのだろうが、「やせて」にはすらっとしているだけではない、悲しさがつ付きまとう。まどさん自身が「自分ではできないきれいごとを書いている」と自分を責めるような発言をしていることも重い。
阪田さんは、子どもたちの答えに、違う意味で衝撃を受けた。
理由は、その答えから、この詩のモデルが、まどさんのお母さんではないかという考えに導かれたからだ。
『まどさんのうた』より
まどさんから聞いた話から、阪田さんの伝えるそのお母さんとは——
くらしには苦労し続けなのに、困っている人を見ると助けずにはおられなかったし、晩年は病気に苦しむ人に手をあてて直してあげもした。写真を見ると、いつもやせて、しかもまっすぐ立っている。
『まどさんのうた』より
この「やせて、しかもまっすぐ立っている」は見事に「うつくしく/やせて 立っています」と重なり合う。
ところで、まどさんは絵に熱中した時があった。会社を辞めた後、秘かに自己流で描いていて、現在、ほとんど全作品が寄贈された、出身地の市の博物館で順繰りに展示され、画集も出ている。その中にはこの「クジャク」の絵もあるが、原画は皇居にあるとのこと(注6)。国際児童図書評議会(IBBY)のインド大会での基調講演にビデオ出演された美智子さまは、新見南吉の「でんでんむしのかなしみ」という童話に言及されたのだが、この詩の悲しみにも心寄せられ、ご自分の理想像とされているのかもしれない……。

『まど・みちお画集 とおいところ』まど・みちお 絵と詩 (新潮社)
最後に、まどさんの僚友、坂田さんがまどさんの詩の仕事をまとめたと思われる言葉があるので――
まどさんは、きっと今は、たった今も、自分の家や、近所の道で、みんなが気づかぬ小さな、それゆえ大事なことを、私たちの代りにみはってくれている。まどしている。
『まどさんのうた』より
この「まどしている」という最後のまとめはさすがである。まどさんの本名は「石田」というよくある普通の名前なのだが、「まど」というペンネームは、詩人らしい、素晴らしい命名だと思う。誰でも知っている、家の「まど」、外の世界に開いていく——でもこれをペンネームにした人はなかった。
(10/15/2026)
- (注1)以下、阪田さんの発言は、すべて阪田寛夫著『まどさんのうた』(童話屋刊)に拠る。この本にはほとんどの詩にカットが入っていて、それが詩と見事に合っている——呼び合うと言おうか。「うさぎ」の挿絵については本文でふれた。「ぞうさん」は母象と子象の鼻のかたちが、流れるラインの中に描かれる。「やぎさん ゆうびん」は、白と黒の色づかいが素晴らしい、2ページにわたっているところも。「リンゴ」ときたら、哲学的なカット! 「クジャク」は、羽根の目の描き方が印象的。しかし、カットは白黒なのだが、別にカラーの絵もあり、その絵の色が、詩の内容の切実さで迫ってくる。これらカットを描いた人の名を本の中に探すのだが見つからない。昔こどもの本にカットを書いていたまどさんのこと、これもまどさん作? さて、まどさんと阪田さんに関していえば『まどさんとさかたさんのことばあそび』(小峰書店刊)という二人の詩集も出ている。

『まどさんとさかたさんのことばあそび』まどみちお 阪田寛夫 作、かみやしん 絵(小峰書店)
- (注2)まどさん作詞の「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」に、関根栄一作詞の「おつかいありさん」を加えた3つに、團伊玖磨が作曲した曲を集めた楽しい曲、「團メドレー」(弦楽三重奏のための)(松崎国生編)が2026年6月9日、東京白寿ホールで、アンコールとして、世界初演された(演奏は、石上真由子、中恵菜、佐藤晴真による)。
- (注3)冠詞といえば、引用した詩のタイトルの冠詞の使い分けを確認しておきたい。Rabbitは、一般的にすべてのうさぎはこういうものだからと無冠詞。The Appleは、リンゴとはこうしたものだという定義のようなもの、theで規定している。A Peacockはすべてのクジャクがこのようであるというのでなく、ある一羽のクジャクはこうであるという詩。
- (注4)リンゴは、身近にあること、そしてそのかっちりとした姿から、人を哲学的瞑想に誘うのか、ニュートンはリンゴの落ちるのを見て万有引力にたどり着いたと言われているし、ドイツの文人シラーは、常にリンゴを手元に置き、その朽ちる姿を熟視していたとのこと。
- (注5)この詩の「あることと/ないこと」を英語にする時、existenceとabsenceという名詞に行かずに、もっと忠実に“to be and/not to be”という訳を思い浮かべた人もあるかもしれない。“To be or not to be, that is the question”は、『ハムレット』で、両極端の二つの生き方のうちどちらを選ぶべきか、悩む主人公の名セリフで、それが、このElliott・西原訳のように、一つであるというなら、面白い。これは、名セリフであるだけに、昔から「生きるべきか死ぬべきか」「生か死か」はては「このままでいいのかいけないのか」などいろいろな翻訳を生んでいる、それだけに、あまりに含むものが多くて、to be and not to beと訳すのは問題がある。それに、「あることと/ないこと」という存在・非存在の哲学的対立より、現実的に登場人物の生き方の問題になってしまってもいる。
- (注6)まどさんの担当編集者の一人であり、『まど・みちお画集 とおいところ』(新潮社刊)を手掛けた松田素子さんの、まどさんを偲ぶ講演が神戸であり、その折の発言。(2026年2月28日、神戸のモダナークギャラリーにて 企画:トト・プロジェクト) なお、当日、紹介されたのが、まどさんの詩に、松田さんのパートナーであるきたむらさとしさんが絵を付けられた『けしゴム』という手のひらに乗るじゃばら本(鉛筆堂刊、発行日は、まどさんの命日でもある、この講演の日となっている)。

『けしゴム』まど・みちお 詩、きたむらさとし 絵(鉛筆堂)
[追記]
『こどものうた』中田義直 編(野ばら社刊 1982年,初版1962年)に、團伊玖磨作曲の2曲以外にも、まどさんの作詞による曲はいくつか採られていて、今でも歌われる「ふしぎなポケット」や「つみき」、他に「びわ」「おむすびころりん」「つりかわさん」というのもあった。私にとっては、幼稚園で歌った「ふたあつ」がやはりまどさんの詩だと知って驚いた。最近思い出して、こんな歌もあったなあと思っていた矢先だけに。——1番:ふたあつふたあつ なんでしょね/おめめが一 二 二つでしょ/おみみも ほらね ふたつでしょ 2番:ふたあつふたあつ まだあって/おててが一 二 二つでしょ/あんよも ほらね ふたつでしょ——そして私の知らない3番もあった——まだまだいいもの なんでしょね/まあるい あれよ かあさんの/おっぱい ほらね ふたつでしょ——ここには、まどさんのお母さんへの思いがいっぱい詰まっているように思われる。そしてこれはすべての男の子のお母さんへのあこがれかもしれない。私が小学生のころ、ご近所に、「この子、こんなに大きくなってもほしがって……」と、男の子におっぱいを出していたお母さんがおられたのを思い出す。
[読書案内]
- 『まど・みちお全詩集〈新訂版〉』伊藤英治 編(理論社)https://www.rironsha.com/book/04231
『まどみちお詩集』谷川俊太郎 編(岩波文庫)https://www.iwanami.co.jp/book/b287521.html- 阪田寛夫『てんとうむし』(童話屋)

- 『まどみちお詩集 うちゅうの目』

- 武田雅子 大阪樟蔭女子大学英文科名誉教授。京都大学国文科および米文科卒業。学士論文、修士論文の時から、女性詩人ディキンスンの研究および普及に取り組む。アマスト大学、ハーバード大学などで在外研修も。定年退職後、再び大学1年生として、ランドスケープのクラスをマサチューセッツ大学で1年間受講。アメリカや日本で詩の朗読会を多数開催、文学をめぐっての自主講座を主宰。著書にIn Search of Emily–Journeys from Japan to Amherst:Quale Press (2005アメリカ)、『エミリの詩の家—アマストで暮らして』編集工房ノア(1996)、 『英語で読むこどもの本』創元社(1996)ほか。映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』(2016)では字幕監修。



