挿し絵:北林研二

タルホピクニック

 

 王子駅そばの「北とぴあ」の展望台から、行き交う電車を見ながら、あがた森魚さんが、この景色すごく好きなんだ、おもちゃみたいだよね、と言った。

 2014年、わたしはひょんなことから、あがたさんの新しいアルバムに添えるためのインタビューをすることになって、でもそれはただどこかの喫茶店でじっと話をきくということにはならなくて、川口のスタジオを訪れ、そこからあがたさんお気に入りの王子の街に移動し、高いところに上ろうというので、こんどは北とぴあの階上で話すことになった。あがたさんの「おもちゃみたい」という見立ては、『乗物図鑑』というアルバムを作って「車掌も切符もブリキになって」と歌った人ならではだとは思ったけれども、その頃、わたしは関西生まれの関西育ちだったから、目の前の景色を東京の地理と結びつけて考えたりはしなかった。王子駅から東京駅に向かう帰りの電車で、しばらく右手の景色がふさがるのにもなんとなく気づいてはいたけれど、退屈だから左手の街並みばかり眺めていた。

 東京に住み始めて、ある日気まぐれに、田端あたりから線路を見下ろすように歩いてみて、ようやくどういうことかわかった。JRの線路は上野から王子、さらには赤羽まで、武蔵野台地のいちばん端の、すとんと切り立った崖に沿って走っている。むかし永井荷風が『日和下駄』で「上野から道灌山飛鳥山へかけての高地の側面は崖の中で最も偉大なものであろう」と記しているのを読んで、ずいぶん大げさな言い方だと思ったものだが、実際に目にすると、それはけして大げさではなかった。ここは太古の昔、縄文海進の頃は波打ち際であり、崖を波が洗っていた。電車に乗ったとき右手の景色をふさいでいたのは、この崖だったのだ。

 武蔵野台地、と書いたけれど、では崖の内側が平坦な台地かといえばさにあらず。上野の「山」、道灌「山」、飛鳥「山」。山々の両側は東も西も凹んでおり、一続きの山脈のようになっている。東が崖であることはわかったけれど、西も凹んでいるのはなぜか。それは、川のせいだ。大昔、崖のすぐ内側を川が流れており、土地を削っていったおかげで、上野から王子にかけては、東が絶壁、西が谷地で挟まれた山になった。いまの谷田川通り(旧藍染川)がその谷川にあたる。西日暮里のあたりは、谷が内側からあまりに崖へと迫っているので、東と西がほとんどつながって、山脈は危うく歩道橋でつながっている。谷はそこからぐにゃりと崖から遠ざかり、不忍池へと至る。池の南側はかつて海へと開けており、そこが砂でふさがれて潟となったのだ、といわれている。

図:上野から王子にかけての微高地(色つきの部分)と川筋の関係。点線は太古の石神井川のおおよその流路(推定)

 最も複雑怪奇なのは、王子駅の周辺だ。石神井川が東西に走って、山脈を寸断している。途切れたところに、飛鳥山が切り立っている。じつは、ここもかつては、西日暮里のように、内側の谷と崖が際どく接していたのだそうだ。大昔、石神井川は、山脈を横断するのではなく、反対側にぐにゃりと曲がって谷田川、そして不忍池の方へと流れていた。それが、川が山を削り、あまりに崖に近づき過ぎた結果、ついに崖を突き抜けて東へと注ぐようになり、現在の石神井川の流路になったと考えられる。このあたりのことは、荻窪圭さんが詳しく書いておられるのでそちらの記事をお読みいただきたい。(荻窪圭のマップアプリ放浪「桜の名所『飛鳥山』はなぜ、独特の地形なのか?」

 その後も、王子駅付近は人工的に川の流路があちこち変更されたため、周辺の低地はぐにゃぐにゃと入り組んでいる。その低地を縫うように都電荒川線が走り、飛鳥山のこちら側から向こう側へ、くるりと抜けていく。王子駅そばの急カーブがその、くるりだ。北とぴあから見下ろすと、高架を行く電車と路面電車が立体交差しており、さらには傍らの飛鳥山を短いロープウェイ「アスカルゴ」が上下に動いているから、まるで動くおもちゃの立体博覧会のように見える。

 あがた森魚さんは、2020年から「タルホピクニック」という不思議な催しを開いている。石神井川にかかる音無橋の下から始まって、あがたさんが弾き語る歌に合わせて参加者が思い思いの音を鳴らしながら、起伏に富んだ飛鳥山を上って下って、また橋の下に戻る。2時間から3時間ほどのピクニックだ。参加者は数十人以上になるときもあれば十数人のときもある。あがたさんが敬愛してやまない稲垣足穂のことを想いながら歩くから、タルホピクニック。

 じつは王子の周辺は、歩行者には少々意地の悪いつくりになっている。石神井川に架けられた音無橋から見ると、すぐ目の前が飛鳥山なのだが、橋と山とは路面電車の走る大通りのこちらとあちらで、あいにくしばらく歩道がない。歩いて飛鳥山の麓に行くには、わざわざいったん川沿いに王子駅まで戻り、そこから歩道橋を上り下りして路面電車をまたぎ、そこから再び飛鳥山まで歩くことになる。

 2024年12月、あがたさんがずいぶん遅れてやってきたことがあった。音無橋の下に集合していた楽隊は、到着を待ちかねて、飛鳥山の麓に移動した。しばらくして音無橋の方から、あがたさんがギターを弾きながら歩いてくるのが見えた。でも、それは大通りの向こうで、こちらに直に渡ることはできないから、あがたさんは歌いながら、道を下って王子駅へと遠ざかり、見えなくなったと思ったら歩道橋の上に現れ、道のこちら側に下りてきて、JRの高架を抜けてくる頃には歌声が聞こえてきた。駅から出てくる人たちが何ごとかしらと振り返るけれど、あがたさんは飄々と歌いながら歩き続けて、アスカルゴの麓駅にやってきた。まるで路面電車と高架線とロープウェイでできたおもちゃの世界を縫い合わせてしまうような歌いっぷり、歩きっぷりで、おかしくてしょうがなかった。

 2025年12月、稲垣足穂の生誕月に、久しぶりにタルホピクニックに随行した。昼すぎまで小糠雨がそぼ降っていたのだが、飛鳥山を登り始める頃には雨が上がり、山頂に達した頃には、西の雲間から陽が射すまでになった。崖と谷に挟まれた飛鳥山の上は、小さな起伏に富んだ公園で、十数人で歌いながら歩くと、フォーメーションがその起伏に合わせて垂直にも水平も変化して、ギターが遠ざかり、カスタネットが近づき、歌声はハーモニーになったかと思うと散らばっていく。

 わたしはずっとウクレレを弾いていた。タルホピクニックで歩くと、不思議と音がよくなる。ふだんは家で遠慮しながら爪弾いているけれど、外で弾くとなんとか大きく鳴らそうとするから、自分でも知らぬ間に、響きのよい弾き方を探り当てているらしい。

 楽隊の二人が脚立を担いで、ときには引きずり、ときには脚を叩いて、目にも耳にもリズムを刻んでいる。立てると上れる。何かを掲げることができる。二つの脚立のあいだに赤と緑の布を広げると、逆光が射して、布の向こうを歩く楽隊の影が落ちる。あがたさんは布をかけた脚立の一つをまるでコートを頭からかぶるようにかついで歩き出す。肩からかついだギターはいまにもずり落ちそうなのだが、不思議と本当に落ちたりはしない。

 飛鳥山を下りながらあがたさんが「いとしの第六惑星」を歌う。それは、星の歌であり、鉄道の歌であり、ひとつひとつの駅の名前を唱えていく歌だ。「帰りたくない、帰りたくない」。歌声は、地面を行く電車のゆくえを唱えながら、空に近づいていく。

 ピクニックを辞したあと、その日がちょうど、ふたご座流星群が極大となることに気づいた。真夜中、近所の開けた神社に登って首が痛くなるほど空を見上げていたら、明るい流星が二つ流れた。次の日から腰痛が始まった。

(12/26/25)

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