それは明治34年(1901)の2月3日のこと
同じ本を何回も読むことがあります。雪が降るような季節には、中谷宇吉郎の『雪雑記』を読み、湿った夏の夜には『稲生物怪録』を読みます。
二月の名エッセイといえば、中谷宇吉郎の「立春の卵」がよく知られていますが、その師にあたる寺田寅彦の「団栗」も二月の名エッセイです。しかし、この話が二月のことだとはっきり意識したのは最近です。どんぐりを拾う話なので、秋のような気がしていましたが、暮れからお正月、二月のお話です。そしてそれは明治34年の2月3日のことだったと教えてくれたのは、『どんぐり』という本でした。
コロナ下の奈良でブックフェアをのぞいたら、『どんぐり』という柿色の薄くて硬い装丁の本が目にとまりました。本の題字は、表紙にも背にも銀の箔押しで抜かれていました。
「団栗」はずいぶん前に岩波文庫で読んだのと、同じくコロナ下の2020年5月に出た角川ソフィア文庫の『科学歳時記』(底本は1950年角川書店刊『科学歳時記』)で読んだばかりだったので、ほんの短いエッセイなのに、「団栗」だけで一冊作ったのか? とページをめくると、中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」という解説みたいな随筆が載っていて、それは読んだことがなく大いに興味を引かれ、またその文章は「団栗」の3倍の長さがあり、その二篇の間に「コーヒー哲学序説」という短い話も挟まっていました。全3話で文庫と比べたらお値段的にどうかなあと悩みながらも千円台だからいいかと納得し、お値段以上に、こんな本の作り方があるのかと感心して買って帰ったのでした。
「『団栗』のことなど」は、あの愛おしく切ない「団栗」の秘話というか、寺田寅彦は書かなかった、随分な辛い事情を、寅彦の日記をひもといて克明に書いてあり、読後悲しくなって、宇吉郎は何を書いてくれたのか、読まなきゃよかったと思ったくらいです。しかし、そういうことを寺田寅彦が書かなかったというところにまた妻への愛が感じられました。つまり宇吉郎は、そういう愛を持った恩師を思ってこそ、「苦しいそして美しい思い出」(宇吉郎)の背景をあえて記述したのでしょう。
宇吉郎の文章によって、団栗を拾った日が明確になったことで、明治の終わりごろの、そして二十世紀の初めの、冷たい二月の空気感をよりリアルに感じながら、読むことができるようになりました。さらに、2月3日の冷たい空気だからこそ、話に出てくる植物園の温室のなまあたたかさがよけいに感じられるようにもなりました。
温室で夏子さんが触った葉っぱを想像する
さて、ここからの話は、その植物園の温室に出てくる草の葉についての、わたしの想像です。
2023年の10月、前広島市植物公園栽培展示課専門員の島田有紀子先生の講演を聞きにいきました。それは「変わり葉ゼラニウム」についてのお話でした。島田先生はご自身でペラルゴオタクとおっしゃるほどのペラルゴニウム好きです。ペラルゴニウムというのは、日本で通称ゼラニウムとしてよく知られている花の正式な名前です。
ゼラニウムはヨーロッパの家の窓辺によく飾られている赤い花で、日本でも赤やピンクや白のゼラニウムが庭先によく植えられています。近年はハーブとして、花よりも葉っぱの持つすっきりとした匂いを楽しむために育てている人も増えているようです。うちにも昔、赤花のゼラニウムの鉢植えがあったので、葉っぱの匂いはいつでも思い出せます。
しかし、よく見かけるゼラニウムと違い、変わり葉ゼラニウムというのは、珍奇な葉をしたゼラニウムで、白色の斑とか赤い輪とかが入っています。明治の終わりから大正、昭和にかけて、大流行したらしく、輸入した欧米の品種をもとに、日本人の感性で独自に改良されていったものだそうです。
ところが、戦後は衰退の一途をたどり、消失が危惧されていたところ、島田先生がおられた広島市植物公園では、その貴重な伝統園芸植物とその歴史を後世に伝えるという使命のもと、国内で唯一、品種の保存と展示会を続けてきたのです。そのコレクションは2020年、日本植物園協会の「ナショナルコレクション」に認定されました。島田先生は、変わり葉ゼラニウムの収集保存と来歴に関する調査研究を行ってこられた、ただのペラルゴオタクではなく、変わり葉ゼラニウム研究の第一人者なのです。
島田有紀子先生の研究についてはこちら[広島市植物公園紀要]PDF「変わり葉ゼラニウム」の日本への導入および発展の歴史(2014)
島田先生の講演を聞いてからひと月ほどして、お正月のころ、また「団栗」のページをめくっていると、あれれれれれ?と思ったのでした。というのは、そのお話の中で、寅彦の妻が、温室で植物の葉っぱに触る場面があるのですが、それは、ひょっとしたらひょっとして、もしかしてだけど、変わり葉ゼラニウムなんじゃないの?という思いにとらわれてしまったのです。
その場面はこうです。
妻は濃緑に朱の斑点のはいった草の葉をいじっているから「オイよせ、毒かもしれない」と言ったら、あわてて放して、いやな顔をして指先を見つめてちょっとかいでみる。 (寺田寅彦「団栗」より)
まあ、これだけの描写なので、なんとも断定できないのは承知の上、あくまでも想像です。宇吉郎によるとこの時、寅彦は二十三歳、妻の夏子さんは十八歳くらい。
ちょっとこちらクリックしてみてください(NHK「趣味の園芸」日本独自の美の感覚が育んだ「変わり葉ゼラニウム」2016/03/28 )。「オイよせ、毒かもしれない」というような葉っぱです。
こちらは雑誌『園芸Japan』2023年2月号を紹介するポスト
2月号の特集はこんなページから始まります!!
個人的に変わり葉ゼラニウムを育ててみたくなりました…… pic.twitter.com/GXajHDE2IC— 園芸JAPAN【毎月12日発売】 (@JAPAN28497483) January 13, 2023
寅彦がゼラニウムの花は知ってはいても、花の付いていない奇妙な葉っぱだけを見たとき、それがゼラニウムだとは気づかないのではないでしょうか。しかしこれは、濃緑に朱の斑点ではなく、濃緑に朱の斑入りなので、違うじゃないかと言われれば、ほな、変わり葉ゼラニウムと違うか……、ではあるのですが。
草の葉をいじった夏子さんは、指先を見つめてちょっとかいでみられたのです。科学者に毒かもしれないといわれたら、指先を見つめた後すぐに袂とかハンケチとかで拭くのではないか?私ならそうする、もしくは夫の背中で拭く。しかも、夏子さんは病気なのでよけいに用心されてもいいようなものですが、夏子さんは、毒が付いたかもしれない指先を見つめて、ちょっと匂いをかいでみられたのです。いやだと思って指を見つめた時に、あれ、なんか匂いがする、と思われたのではないか?それが本能的に、かいでみたくなるような匂いだったのではないか? そうすると、それはもう、変わり葉ゼラニウムやがなと、その可能性が高くなります。
明治34年の小石川植物園温室に「変わり葉ゼラニウム」はあったか?
問題は、明治34年の2月3日に、植物園に変わり葉ゼラニウムがあったかどうか、です。植物園というのは、小石川植物園です。宇吉郎によると、この頃、寺田寅彦は西片町に住んでいて、その日の日記から戸崎町を通ったことがわかるので、小石川植物園で間違いありません。そもそもこの時代の日本で植物園というものはほかにはクラーク博士で有名な北海道大学くらいしかないようです。国内初の公立植物園として知られる京都府立植物園の開園は大正13年(1924)です。
西片町会地図および昔の町会地図(西片町会(文の京(みやこ)、東京都文京区の高台にある「西片町」の情報サイト)
そして、小石川植物園には本格的な温室ができたのは、寅彦と夏子さんが訪れた前年の明治33年(1900)のようです。
朝日新聞デジタル>論座アーカイブ > 記事>科学・環境>日本最古の小石川植物園に登場した新温室>生きた植物と結びついた研究成果の発信の場に>米山正寛 ナチュラリスト>2020年08月24日
温室について、寅彦は「団栗」で、「椰子の木や琉球の芭蕉などが、今少し延びたら、この屋根をどうするつもりだろうといつもそう思うのであるが、きょうもそう思う」と書いていますが、上の米山正寛さんの記事によると、「大正になるころには、中の植物が大きく育ったためか、屋根を少し高めにする改造工事も行われた。」とあるので、心配したとおりに植物は育ったようです。
また、温室の内部については、寅彦と夏子さんが訪れた6年後、明治40年(1907年)に発行されたステレオ写真が公開されていました。東京都立博物館・美術館収蔵品検索へ
寅彦が見るつもりだった「あかい花」は、このステレオ写真に写っている花だったかというと、それこそ不明。なぜなら写真は着色されているからです。白い花にも赤色を塗ってあるように見えます。
さて、この小石川植物園の温室に、変わり葉ゼラニウムはあったのか。島田先生の論文には、「明治4年には,すでに小石川薬園(現:小石川植物園)においてもテンジクアオイを栽培していた(大場秀章,1996『日本植物研究の歴史—小石川植物園300年の歩み』p.38 財団法人東京大学出版会)とありました。
テンジクアオイとはゼラニウムのことですが、しかし、これは変わり葉かどうか不明です。また、島田先生の研究によって、「ゼラニウムは幕末にオランダから渡来した」ことがわかっています。「渡来に関する最も古い記録は『新渡花葉図譜』にあり、元治元年(1864)に尾張に入っていたことが記されていた」ようです。
元治元年から明治4年(1871)までは7年。その30年後の明治34年に関する記述としては、「明治34年のカタログ『興農雑誌』に「ジレニアム」が(略)同じく明治34年の東京三田育種場のカタログ『明治農法』でも1株15銭で扱われていた」と島田先生は書いておられます。寅彦と夏さんが植物園を訪れた頃、ゼラニウム自体が普及していたことは明らかです。
では、明治34年に変わり葉ゼラニウムは日本に入っていたのか? じつはこれが非常にもどかしい。島田先生はこう書いておられます。「明治40年以前の目録や園芸書は乏しく、本研究では正確な導入時期の手がかりとなる資料は確認できなかった」と。「しかし、横浜植木株式会社の明治41年の定価表や明治42年発行の『温室園芸法』(略)などから、変わり葉ゼラニウムが明治40年代に注目されたことは明らかである」と。うーむ。あと8年が埋まらない。
41年(1908)のカタログに載せるのなら、ある程度の数を安定して確保しておかないといけないと思うので、30年代の終わりには花農家で栽培が行われていてもよくて、そのためには30年代の半ばぐらいには輸入されていてもよいような気がします。しかも植物園なのでいち早く蒐集していたのではと期待してしまいます。「東大植物園は、時代と共に研究目的において蒐集する植物種も変わってきたが、どの時代もできるだけ多くの生きた植物種を蒐集・栽培保存することが行われてきた。」(大場編,1996『小石川植物園300年の歩み』下園文雄著「植物園と系統保存事業」)とありますし、また、横浜植木は明治23年(1890)から植物類の輸入を行っているようので、可能性はありそうなのですが。(横浜植木の沿革はこちら)
さらに、明治34年ごろに創立されたという小田原の辻村農園にも期待がかかります。「西洋草花園芸」の開拓者と称された農園だったらしく、フランスとドイツからの輸入種が多く、特に数多く作られていた鉢花の一つがゼラニウムだったとのことで、辻村農園『園芸植物目録』第一輯には、ゼラニウムが280品種、そのうち変わり葉ゼラニウムである「麗葉天竺葵は28品種であった」と、調査した島田先生は書いておられます。ですがしかし、このカタログの出版年が「年代不詳」とあります。農園の創立年もぼんやりしているし、発行された年もわからない。ものすごく惜しい。
小石川植物園の伊藤圭介翁は早くから変わり葉ゼラニウムを知っていた
しかし、わたしには島田先生の研究に、なんとなくうっすらと光が見えたのです。ほとんど幻です。それは、伊藤圭介・篤太郎編の『植物図説雑纂 [176]』に、「オランダアフヒの図 但葉紅斑アリ Pelargonium zonale mrs pollock」という記文と、ごく簡単なスケッチが載っていた、として、その図が掲載されていたからです。
伊藤圭介とその孫の伊藤篤太郎については、NHKの朝ドラ「らんまん」でトガクシソウの事件を知る程度でしたが、伊藤圭介は尾張国名古屋生まれ、文政10年(1827)シーボルトに師事した本草学者にして、さらに日本初の理学博士。しかも、圭介翁は小石川植物園で研究に携わっていたのです。おお、つながるのか?
『日本植物研究の歴史—小石川植物園300年の歩み』に、「江戸時代末から明治に活躍した本草学者として伊藤圭介の右にでる人物はいない。(略)伊藤圭介がその長い人生の最晩年に、最後の本草学者のひとりとして研究に携わったのが、小石川植物園なのである。」とありました。(大場秀章,1996『小石川植物園300年の歩み』「本草学から植物学へ」)
同書によると、伊藤圭介は明治3年(1870)に大学出仕を仰付かり、明治8年(1875)には文部省から「小石川植物園へ時々出勤候様」との内命があり、植物園に出向いて植物の調査に従事したようです。明治10年(1877)に東京大学が設立されると員外教授を嘱され(この時75歳)、明治14年(1881)に教授に任ぜられますが、「その任務には変化がなく、植物園で植物調査を行うことであった。」と。そして、明治19年(1886)3月に東京大学が帝国大学となった際、翁は非職となったそうです(84歳)。ちょっと時代が違うか。しかし、翁は長生きで、明治34年の1月20日に99歳でなくなっておられます。寅彦と夏子さんが植物園を訪れる2週間前です。と圭介翁のことばかり書き写していても、何もつながりません。
明治10年、翁が出版した、東京大学の最初の学術出版物といわれる『小石川植物園草木目録』をのぞいてみましたが、ペラゴニウムは白花単弁、淡紅色、八重、紅花の二弁に黒点のあるテンジクアフヒだけで、変わり葉ゼラニムは載っていませんでした。ないのか……。
さて、圭介翁のスケッチがへなへななのは、実際の植物からではなく、ヨーロッパの図譜から写したらしく、島田先生がこの ‘mrs pollock’について調べたところ、1858年にイギリスで作出された、楓葉に黄色の覆輪と紅の蛇の目が入る品種だとのこと。「当時日本に輸入されていたかどうかは不明であるが、彼らがこのような葉の美しいゼラニウムに着目していたことは興味深い」と書かれていました。ほんとうに大いに興味深いです。
いったいいつ圭介翁はヨーロッパの図譜で‘mrs pollock’を見て、スケッチを残したのでしょう。図が載っている『植物図説雑纂』は、「全254冊にのぼる大部の資料集」で、「明治9年(1876)には製本段階に一応入っているのだから編集に着手したのはかなり前、おそらく幕末の頃ではないかと思われる」(磯野直秀、2003年「伊藤圭介編著『植物図説雑纂』について」p.3 PDF)ようです。え、そんな前。尾張で見たの?
そしてその‘mrs pollock’ は、明治34年ごろ創業したという小田原の辻村農園の『園芸植物目録』第一輯(年代不詳)に掲載された、変わり葉ゼラニウム「麗葉天竺葵」28品種の中に含まれています。ともかく、残念ながら大いに興味深いとしか言いようがないのです。
「団栗」の二つの名作ともう一つ二百文字のアンケート回答
はてさて。夏子さんが触った植物が変わり葉ゼラニウムだったかどうかは、まったくわからず、想像の域を出ません。
ただ、いろいろ検索したおかげで、思わぬ文書に出会いました。それは、寺田寅彦没後80年の2015年に、高知市にある「寺田寅彦記念館」の友の会会報誌「槲」73号にあった、「私の好きな寅彦の随筆」というアンケートの結果報告でした。
40名の会員の皆さんによって第1位に選ばれたのは「団栗」でした。選んだ方の文章を読んでいくとその中に、「どんぐりの “みつ坊” は伯母貞子である。」という一文がありました。衝撃を受けました。そして、その二百文字の文章の中には、たしかな救いがあり、やはり悲しみがたたえられていたのです。
「『団栗』のことなど」で、宇吉郎のことをひどいと思ったのは、そのラストでした。寅彦の『団栗』の最後部は、子どもの “みつ坊” にほのかに明るさを感じて、ハッピーエンドとまでは言えないにしても、そこはかとなく静かに読み終えることができたのに、宇吉郎の最後部は、そのかすかな希望の光をふっと吹き消してしまったからです。
なんてこと——。と、みつ坊のことで心を痛めていたのですが、その後のみつ坊のことを、みつ坊の姪のくみ子さんは、アンケートに書いてくださっていました。「ゆったりと穏やかな優しい笑顔を思うと博芳という才能豊かな息子にも恵まれ幸せだったと思う。」と。しみじみと救われました。
くみ子さんは、みつ坊の妹で末っ子の雪子さんの娘さんのようです。そのアンケート回答にはつづいて、「そして4歳で母雪子と別れた私にとってこの作品は特別思いが深い。」と、ご自身の哀しみにふれられ、最後は「寅彦と父の思いが重なる。」と結んでおられます。
寺田寅彦の「団栗」、中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」、そしてくみ子さんのアンケート回答「団栗」もまた、名文です。寅彦の「団栗」と宇吉郎の「『団栗』のことなど」を読まれた方は、みつ坊(貞子さん)の姪御さんで寅彦の御孫さんの文章もぜひ。全文はこちらに掲載されています。
「槲」73号「寺田寅彦記念館」友の会会報誌>「私の好きな寅彦の随筆」アンケート結果報告PDF
さて、宇吉郎は「『団栗』のことなど」の書き出しに、「小宮さん」のことを書いています。「今度岩波文庫に『寺田寅彦随筆集』の第一巻が出た。小宮さんの編輯によるもので、全部で五巻のうちの第一巻が出たのである。その巻頭に『団栗』が載っている。(略)もちろん文芸的の価値からいっても、この『団栗』と次の『竜舌蘭』とは、先生の作品の中でも、特に高く評価さるべきである。しかしそのことの他に、この『団栗』は深い意味のある作品であって、これが今度の集の巻頭に載ったことについては、小宮さんの寅彦に対する心持がしのばれるように、私たちには思われる」と。
私たちとは、夏目漱石の門下生たちということでしょうか。小宮さんとは小宮豊隆で「三四郎」のモデルといわれ、師である夏目漱石の研究者としても知られます。寺田寅彦は門下生なので、宇吉郎は孫弟子。いずれにしても、寅彦に近い人たちは、「団栗」を特別な作品として、寅彦への深い思いを持ちながら読まれていたのです。
寺田寅彦の「団栗」が『ホトトギス』に載ったのは、明治34年から4年たった明治38年(1905)4月。中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」はその42年後の、文庫本が出版された昭和22年(1947)11月。文庫本が出版されて、いろんな人が読むようになって、「奥さん、かわいい」だの、「なんの葉っぱだろう」だの、「みつ坊はどうなったんだろう」だの、何にも知らない人に軽々しく読んでほしくなかったのかもしれない。そして、そこからさらに68年、『団栗』発表から110年後の2015年(平成27)、くみ子さんは寅彦没後80年のアンケートに回答くださったのです。深い思いが時代を超えてつながっています。
さらに『どんぐり』(灯光舎)撰者の山本善行さん。あとがきに寺田寅彦の「どんぐり」を撰んだのは、「哀しい話ではあるが、それを歌い上げたという点でも救いがあると思うし、大切なものを失くしたあと、また歩き出していく寅彦の気持ちも察することができる。」といい、また、中谷宇吉郎の「『団栗』のことなど」については、「私は、この文章を読んだときの感動を忘れない。」とあり、「これは解説や作品評の要素はあるものの、独立した随筆の傑作だと思った。」とありました。そして、「寅彦の「どんぐり」を入れるのなら、宇吉郎の「『団栗』のことなど」も入れたい。この二作品を同じ本の中で読みたいという以前から持っていた強い思いを実現することができた」とありました。
強い思いを実現していただけてよかったです。本の最後は「この一冊をきっかけにして、寅彦と宇吉郎の他の作品へと読み進めてもらえると嬉しく思います。」と結ばれています。日付は、2021年1月20日。「団栗」発表から116年後です。
わたしは、この一冊をきっかけにして、いろいろと行ってみたいところができました。それに、夏子さんの触った葉っぱはわたしの頭の中では、もうすっかり「変わり葉ゼラニウム」ということになっています。
(2024年2月25日)
*おまけのステレオ写真
*行ってみたいところ
広島市植物公園 展示温室 広島市 R6年度ゼラニウム展 3月2日(土)~4月14日(日)
小石川植物園 東京都文京区
西片町 東京都文京区 西片散歩
高知県立文学館 寺田寅彦記念室 高知市
寺田寅彦記念館 高知市
中谷宇吉郎 雪の科学館 石川県加賀市
みやこ町歴史民俗博物館 小宮豊隆記念展示室 福岡県みやこ町
古書善行堂 京都市左京区
*読んでみたい人へ
『どんぐり』寺田寅彦、中谷宇吉郎 著/山本善行 撰(2021年3月刊行)灯光舎へ
『寺田寅彦随筆集(一)』小宮豊隆 編(1947年2月刊行)岩波文庫へ
『科学歳時記』寺田寅彦 著(2020年5月刊行)角川ソフィア文庫へ
「『団栗』のことなど」中谷宇吉郎 著 青空文庫へ
「どんぐり」寺田寅彦 著 青空文庫へ
*筆者担当ページ 「きょうのいろいろ」はこちら 「ニコニコアート倶楽部」はこちら