「ヴェネツィアのパーリャ橋の階段」
文・写真・図 下坂浩和
ヴェネツィアは言わずと知れた水の都ですが、歴史をさかのぼると、6世紀半ばに、現在のヴェネト地方とその周辺で東ローマ帝国の属州になっていたウェネティア(Venetia)の住民が、北方からランゴバルド族が侵入した際に、海岸やラグーナの島々に避難して移り住むようになったのが始まりのようです。その後、828年にアレクサンドリアからサン・マルコの遺体が運ばれてきて、それ以来サン・マルコの守護のもとに共和国体制が組織され、大航海時代が始まる15世紀に経済的に最盛期を迎えました。
近代になると、ヴェネツィアは1846年に鉄道橋で、1932年に道路橋でイタリア本土とつながりましたが、鉄道も自動車もヴェネツィアの入り口までしか入ることができません。市内交通に今でも舟が利用されているのは、水路網が街中に縦横無尽に巡らされているからですが、道が細く入り組んでいる上に、水路をまたぐ橋はどれも中央が高く、両端が階段になっていて自動車が通れないせいでもあります。ヴェネツィアは道よりも水路優先の街なのです。
2001年、二度目のヴェネツィアで、とても緩やかで、歩幅もちょうど良く、歩きやすい階段のついた橋があるのに気づきました。サン・マルコ広場から海沿いに東に向かうスキアヴォーニ河岸通りの橋でしたが、その時は橋の名前もわからず、通り過ぎてしまいました。そして、短い滞在の間に渡った橋は、有名、無名を問わず、どれもたいてい歩きやすいことに気づいてうれしくなりました。日本では、歩道橋や駅のホームなど、公共の場所にある階段は勾配が急なことが多いので、この違いはちょっとした驚きでした。
ところで、日本では階段にエレベーターを併設することでバリアフリー化が進められてきましたが、ヴェネツィアの橋のバリアフリー化は大変です。ひとつひとつの橋にエレベーターを設置するのは現実的ではありません。ヴェネツィアでの何日目かに、先ほどの緩やかで歩幅のちょうど良い橋の階段を、ベビーカーを押しながら渡って行く人がいるのを見かけました。その階段の蹴上、踏面はベビーカーに子どもを乗せたままでも上り下りできる寸法だったのです。
それから十何年も経って、それがどこのなんという橋だったのか調べようと、google mapのストリートビューで探したときにびっくりすることがありました。
サン・マルコ広場から東側に向かって、あの橋があった辺りを見ると、大勢の観光客が行き交うサン・ザッカリアの船着き場の手前の橋に、単管足場を組んだスロープがつくられているではありませんか。
パソコンでこれを見たのは2017年でしたが、ストリートビューには2013年7月撮影とあります。2011年に行ったときにはなかったので、その間につくられたようです。それにしても、ヴェネツィアの石造りの橋に仮設のスロープでよいのか、それとも、いつでも撤去できるようにあえて仮設でつくったスロープなのか、あるいは、本設のスロープを設置するまでの間、一時的に仮設のスロープがつくられたものなのか、そうだとすると、どんなデザインのスロープがふさわしいのか、自分ならどんなスロープをデザインするか、ほかの橋にもいずれはスロープを設置しようとしているのか、などなど、疑問は膨らむばかりです。
昨年(2022年)、十数年ぶりに行ったヴェネツィアでは、ほかの通りでスロープ付きの橋を見かけることはありませんでしたが、Googleで見たスキアヴォーニ河岸通りのヴィン小運河に架かる橋にはやはりスロープが付いていました。
単管足場の手摺はすっきりしたデザインのものに変わっていましたが、スロープ自体は石畳の上に置いただけの構造です。撤去しやすいつくりになっている点で、文化財に段差解消のスロープを付けるときと同様の手法でつくられています。
そして、サン・マルコ広場に一番近く、溜め息橋の撮影スポットでもあるパーリャ橋にはスロープの代わりに、一段一段の段差を斜めにして解消する傾斜板が取り付けられていました。以前、ベビーカーを押して通っている人を見たのはこの橋だったような気がしてきました。
改めて寸法を測ってみると1段の高さ250ミリのうち蹴上寸法(一段分の垂直寸法)は110ミリで、半分以上の140ミリ分は階段の床が傾斜になっていて、踏面寸法(一段分の水平寸法)は1,410ミリのとても緩やかな階段でした。二歩で一段上がるのにちょうどよい寸法で、はじめから半分以上スロープと言ってもよいような階段です。そして、その一段ずつに長さ780ミリの傾斜板が置かれていました。
調べてみると、かつてヴェネツィアの道を馬が通っていた時期があったそうです。さすがに馬車はなかったようですが、1297年にメイン・ストリートで禁止され、15世紀に完全になくなるまで乗馬も許されていたようです(陣内秀信著「ヴェネツィア」鹿島出版会 1986年)。自動車の走らないヴェネツィアで馬が交通手段だったことには驚きましたが、本土から逃れてきたときに馬も連れてきたのでしょう。先ほどの階段の寸法は馬を通行させるための寸法だったと考えると、つじつまが合いそうです。
スキアヴォーニ通りが現在の幅に拡張されたのはヴェネツィアに馬がいなくなった後の1780年で、今のパーリャ橋も1847年につくられたものですが、オリジナルのパーリャ橋は1360年にヴェネツィアで初めてつくられた石造の橋だったそうです。今の橋がオリジナルを踏襲したものだとすると、この橋はヴェネツィアに馬がいた頃の痕跡が残されていることになります。そして、パーリャ橋はそれ自体にも文化財的な価値があるので、景観を損ねる長いスロープをつけずにバリアフリー化されたということでしょうか。それが可能だったのは、そもそもとても緩い勾配の歩きやすい階段だったからと言えそうです。
(2023年9月6日)
- 下坂浩和(建築家・日建設計) 1965年大阪生まれ。1990年ワシントン大学留学の後、1991年神戸大学大学院修了と同時に日建設計に入社。担当した主な建物は「W 大阪」(2020年)、「六甲中学校・高等学校本館」(2013年)、「龍谷ミュージアム」(2010年)、「宇治市源氏物語ミュージアム」(1998年)ほか。