少年ナイフはベアーズより長寿! なのに元気でとってもキュート!
少年ナイフの背中を見て若いバンドも精進せよ。
(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)
──結成40周年おめでとうございます。
山野 ありがとうございます(笑)。
──少年ナイフのベアーズ初ライヴっていつになります?
山野 1990年の10月28日(日)が初ベアーズですね。つけてたノートにはお客さん81人とも記録してある。うちはバンドの歴史も長いんで、昔のことを聞かれるときは下調べをするんですよ。少年ナイフはその翌年の春に日本クラウンからメジャー・デビューすることになってたから、そのライヴにレコード会社の人とか東京の取材の人とかも来てはった(実際にアルバム『712』でメジャー・デビューしたのは91年7月1日のこと)。一緒に出たと思われるのが、保山(宗明王)さんにケン・スギサキさん。
わたしはバンドを始めた頃から自分でノートをつけてたんですね。きょうも持ってきましたけど、このノートが活躍するの、最近になって3回目です。1回目が少年ナイフ結成40周年ということで取材してもらった毎日新聞(2021/6/16記事へ)、2回目がラモーンズファンクラブジャパンの会長・畔柳ユキさんとの対談(YouTubeへ)、そして、この「ベアーズ・クロニクル」。畔柳さんによると、ジョニー・ラモーンもラモーンズ結成以来ずっとノートをつけてたらしい。行動パターンが似てるんでびっくりしました。
──ノートにはどんなことが書かれてるんですか?
山野 初めて練習した81年12月29日から始まって、道頓堀のスタジオワンで初ライヴをした82年3月14日のセットリスト、お客さんの数、ギャラとかが書いてある。ベアーズができた頃、少年ナイフはエッグプラントに2〜3カ月に1回のペースで出してもらってたんですよ。89年8月には初めてアメリカに行ってライヴもやって。メジャー・デビューするとライヴ会場はクラブクアトロとかになってしまうし、91年以後、海外によく行くようになるからベアーズにはあんまり出る機会がなかったですね。92年、『Let’s Knife』が出てからの3年間、ライヴ・ブッキングは東京のマネージメントに任せっきりになってましたし。
そんな中、91年1月27日、9月10日にはベアーズに出てる。確か91年の9月は保山さんの生前葬『保山宗明王告別式』ってイベントで、短めに8曲だけやった。
その次やらせてもらったのが94年6月5日の『フリーマーケット・ライヴ』。外国によく行きだして。衝動買いするのが好きやから使わへんのに買っちゃった…みたいなものが家に溢れてて。フリーマーケットとかもすごい好きなんで自分の持ってるものを売りたくなって。それなら、ライヴやった会場で売るのが一番面白いと思って、それで思いついたのがベアーズだった。
──たぶん、その時だと思うんですけど、スーツケースを1000円で買いました。いまもうちにあります。
山野 すごい! 『フリーマーケット・ライヴ』は95年1月21日にもう1回やらせてもらってる。その後、クアトロでも何回かフリーマーケットみたいなの、やりましたよ。(大阪)南港や万博公園であるフリーマーケットに出店したこともあります。2回目の『フリーマーケット・ライヴ』のポスターがベアーズの受付のところにいまもまだ貼ってあって。紙焼き写真の大きいので、めちゃ黄ばんでるんですけど。そのポスターには94年にハワイでライヴをやってドン・ホーっていう有名な歌手と一緒に撮った写真が使われてる。(中谷)美智枝さん、ドン・ホーの膝の上に座らされてて(笑)。
そこから2005年まで10年…ベアーズでのライヴはない。99年に美智枝さんが辞めちゃったのもあってライヴができなかった頃になるのかな。次の05年2月22日は『アメリカツアー壮行会』ってタイトルでやってる。その頃はツアーでやる同じ演し物をやってた。ベアーズだから…と手描きフライヤーを用意した記憶もあります。
その次が09年4月12日。その日はビートクルセイダーズのゲストで出させてもらった。その頃、ビートクルセイダーズが人気で見るどころじゃないほど、お客さんが入った。次が12年4月22日が少年ナイフ結成30周年とベアーズ25周年を記念してやったイベント。ゼロレコーズの平川さん、保山さん、ガンジー(石原)さんにもトーク・ゲストで出てもらった。
──お世話になりました(笑)。
山野 そこからまた飛んで…16年、17年…18年のソロ・ライヴとなる。18年3月25日…これが最新ライヴになるのかな。
──細かいですね。
山野 だから、「ベアーズ・クロニクル」で語られることの多い、ベアーズが一番盛り上がってた頃は知らないんですね。けど、山本(精一)さんと出会ったのは古い。わたしの友達がパントマイムを習ってて、その発表会でパントマイムに合わせてギター演奏してたのが山本さんだった。82〜83年ごろかな。わたしはてっきり音楽かけてやってると思ってたけど、生の即興演奏だったらしい。のちに山本さんから直接聞いた。妙にそのパントマイムは憶えてて。象の真似をして、これが耳、これが鼻で…その時、音楽が「パオーッ!」って鳴った。「知り合いが少年ナイフやってる」って話を山本さんは聞いてはったんやと思う。大阪なんて狭いですからね。
──82〜83年というと、山本さんはまだ大学生だったはず。
山野 少年ナイフも、スタジオあひるとか、京都のサーカス&サーカス、拾得…ビートクレイジー主催で京大西部講堂に出たりしてた頃。まだエッグプラントもなかった。エッグプラントのオーナー、坂田(敬子)さんはわたしの行ってた高校(住吉高校)の後輩だったみたいで、そのへんにシンパシーを感じてもらえたのか、よく出してもらえた。高校の先輩には大谷レイブンもいました。
──あっちゃん(山野敦子)は今宮高校になるんやっけ。
山野 そう。2年先輩に町田町蔵さんがいたらしい。当時から目立ってはって「油絵の具の箱をカバン替わりにしてはった」と敦子が言ってた。
──山野姉妹は大阪市の南のほう出身なのに、最初の頃、京都のバンドって勘違いしてた人も多かったよね。
山野 それは…少年ナイフ始めてすぐ服部緑地野外ステージであった『なまけものがする日』(82年5月9日)というイベントに呼んでもらって。一緒に出てたバンド、おでんのメンバーだった久富(隆司/のちのローザ・ルクセンブルク、ボ・ガンボスのどんと)くんが目ェつけてくれたみたいで。そこから京大西部講堂周辺の人とたくさん知り合ってしまったから。久富くんは京都大学軽音楽部の人で、おでんのドラムスは吉田バーシ。バーシはヴァンパイア!のほうがメインで。ヴァンパイア!とか久富くんにはお世話になりました。
──それで初期、京都のライヴが多かったんやね。
山野 82年9月6日にサーカス&サーカスで、須山公美子さんと対バンして。それを観に来はったのがゼロレコーズの平川(晋)さんで。須山さんはゼロからレコードを出してはったから。それで「うちでレコード出せへんか?」ってことになる。平川さんも京大出身やし。ヴァンパイア!のベースだった中村(伊知哉)さんはレコーディングにも来はったし、写真もいっぱい撮ってはった。
──中村さんの肩書は少年ナイフの元ディレクターってなってる。
山野 中村さんはその後、官僚になりはって「クールジャパン戦略」にも関わってはった。2015年、パリでやったイベント『Tokyo Crazy Kawaii Paris』に呼んでもらって、少年ナイフはちょうどヨーロッパ・ツアー中だったんだけど、空き日を利用して参加した。中村さんはiUっていう新設の情報経営イノベーション専門職大学の学長になってはって校歌を頼まれたから、「Let’s go! iU」って校歌も書きました。
──少年ナイフがレコードを出してたゼロレコーズも今年(2021年)春、「会社を解散した」って報告が平川さんから届いてた。感慨深いですね。
山野 ゼロは京都の伏見稲荷神社近くでやってはって…大阪の谷四に移って。10年ほど前に名古屋に引っ越さはって、それからも細々とやってはったんですけど、「ゼロの暖簾しまいます」ってことで、わたしにも連絡ありました。
──そうなんですね。ベアーズの話に戻りますけど、ベアーズの印象は?
山野 最も自由な会場。好きなようにやらせてもらうのが一番うれしかったし…なんでステージの床張り替えへんのやろ?っていうのがあるけど、ある意味、あの床やからベアーズなんかなってのがある(笑)。
──山本さんから言われたことで記憶に残ってることってある?
山野 山本さんって寡黙な印象ってない? ボアダムスやってはった時、ツアーでニアミスもしてたけど、実際に会ったことはなかった。ベアーズにいてはったら喋るくらいで。ここ最近はベアーズでも会ったことないから。
──ほかにベアーズのことなら何でも。
山野 石隈(学)くんがスタッフだった時代。一緒にバンドしよう!って2回ほどリハーサルしたことがある。ドラムスは岡野(太)くんで。結局、岡野くんがリハに来ェへんかったから自然消滅してしまったんだけど。
──それは残念ですね。2010年前後になるのかな? 保山ひャン企画のアイドル発掘プロジェクト『10 minutes』に関わってたこともありましたね。
山野 ゲストで2回出してもらった。審査員やったり、あと優勝者には曲を提供するっていうので曲提供したりもしました。マジカルエミちゃんとかいたのかな。あの人、面白かった。保山ひャン、どんなふうにして面白い人見つけてくるんやろう? 保山ひャンと言えば、「牛の反芻」という芸が印象的で、めちゃくちゃエグかった。口の中の物を一度ビニール袋に出してまた食べる。そういうので爆笑をもらえるのはベアーズしか思い当たらない。
──その芸の名前は「人工内臓」じゃなかったっけ?
山野 そうなの!?
*メモ
- 保山宗明王:モダンチョキチョキズのメンバーとして活動したのち、保山宗明玉を経、現在は保山ひャンとして活躍。
- スタジオワン:道頓堀にかかる太左衛門橋(戎橋と相合橋の間)北東詰にあった練習スタジオ。ライヴもできた。
- 中谷美智枝:少年ナイフのオリジナル・メンバー。初期の名曲「動物小唄」「DEVIL HOUSE」「WATCHING GIRL」「CYCLING IS FUN」ほかを手がけた。1998年のアルバム『HAPPY HOUR』を最後に脱退。
- ドン・ホー(Don Ho):「タイニー・バブルス」ほかで知られるハワイ・ミュージックを代表するシンガー。2007年逝去。
- 大谷レイブン:1980年代、「関西3大メタルバンド」…アースシェイカー、44マグナムと並び称されたMARINOのギタリスト。
- 服部緑地野外ステージ:大阪府豊中市服部緑地にあったただの野っ原。同場所に現在の服部緑地野外音楽堂が建てられるのは1991年のこと。以来、『春一番コンサート』などが定期的に開催されるようになる。
- 中村伊知哉:京都大学卒業後、郵政省→MITメディアラボ→スタンフォードジャパンセンター→慶應義塾大学教授というキャリアを持ち、現在はiU(情報経営イノベーション専門職大学)の学長。
- スタジオあひる:1980年4月〜84年9月、大阪・天王寺区寺田町にあったライヴハウス。ラモーンズ、1980年7月の初来日公演も開催された。
- サーカス&サーカス:1975年9月〜84年3月、京都・銀閣寺道近くにあったライヴハウス。のちに改装されてオープンするのがCBGB。
- 京大西部講堂:京都・百万遍交差点を南東へすぐ。1960年代末のロック黎明期から、70年代のフランク・ザッパ、トーキング・ヘッズほかの来日公演、80年代、ビートクレイジーが主催したパンク・イベントなどなど…数々の伝説を持つアングラの聖地。