フランス文学の翻訳者にして評論家、小説家。伝説的ニューウェイブバンドEP-4 のオリジナルメンバーでもあり、中島らもの盟友としても知られる鈴木創士さん。
2020年2月、世に出た『離人小説集』(幻戯書房)は、そんな鈴木さん久々の小説です。この本に収められた7つの作品の主人公は、すべて作家や文学者。芥川龍之介と内田百閒、アルチュール・ランボー、稲垣足穂、フェルナンド・ペソア、原一馬、アントナン・アルトー、小野篁……。彼らの文体を彷彿とさせるパスティーシュ的な要素もあり、作家論、文芸評論としても読むこともできます。しかし、すべてを通して読めば、この作品は小説にしかできないことを試みているのだと気がつきます。
文章を書くとは、小説を書くとはどういうことか。また読むとはどういうことなのか。分身、あるいは離人というキーワードをもとに、たっぷりと語っていただきました。(丸黄うりほ)

自分が書いてるんだけど、自分じゃないやつが書いてるみたいになるときがある

——『離人小説集』はとても評判がいいですね。好意的な書評をいろんなところで見かけます。

鈴木創士(以下、鈴木) そう、こないだ『婦人公論』で豊崎由美さんが書いてくれたりね。普通、僕の本ではこんなに書評が出ることはないんだけど。

——四方田犬彦さんによる『東京新聞』の書評も読みましたし、神戸新聞、日本経済新聞でも紹介されていましたね。この本って、そんなに誰にでも読みやすい小説集だとは、ちょっと言い難いところもあると思うんですけど。

鈴木 読みやすいのもあるよね?

——そうですね。この本に収められた最初の作品「既視」の冒頭の一文から引かせていただくと、「どこかしらもやもやとしていた」。この小説集も、全体に本当にもやもやとしていて鈴木さんの脳内に入っていくような感じがして、ちょっと酔っ払うような、酩酊感がすごくありますね。

鈴木 あ、それはいい。(笑)

——なので、電車の中でパラパラっと読むような感じの読み方はできないなと思います。この小説はもっと静かな空間で読みたいなという感じがして。だから一般的な意味で読みやすい小説ではないと思いました。あくまでもこれは私の感想ですが。

鈴木 まあ、そうかもね。

——まずは、この作品が生まれたきっかけからお話いただけますか。

鈴木 いや、なんだろうね。きっかけって。なんか頭ん中にあったんだよね、作家についての小説書こうかなと。で、これ去年書いちゃったんですよ。わりと早く書いちゃった。なんで書こうと思ったのかな。僕の最初の小説は『アントナン・アルトーの帰還』で、これはアントナン・アルトーっていう作家についての本なんですが、こっちはフランス文学の彼の本をふまえているし、引用もものすごく多い。それとは違う書き方で短編小説を書きたいっていうのがあったんです。僕はね、わりとラテンアメリカの作家たちの短編小説とか好きで。

この小説集のなかにポルトガルの作家、フェルナンド・ペソアが出てくる「無人の劇場」という作品があるんですけど、ペソアっていうのは本当に離人症みたいな人で、自分の中に異名が70人くらいいたんですよね。で、思想信条も体格も性格も全部違う人物たちにそれぞれ本を書かすっていうことをしていたんです。だから違う名前でいくつか本を書いていて、それはまあ死後に発見されるんですけど。僕はまあそういうのもずっと読んでて。

で、「私」とか「自分」とは何かって誰でも考えることなんだけど、この小説集にも出てくるアルチュール・ランボーっていう少年の詩人がね、手紙のなかで「私は一個の他者である」っていうことを書いていてね、自分の先生に対する批判の手紙なんだけど。「あなたの書く詩は主観的すぎる、で、そんなのはダメだ」って書いてて。ランボーは19世紀の人だから、主観とか客観という言葉で説明しているんだけど、ちょっと違うんだよね、それは。「私は一個の他者である」っていうのと「自分」っていうのは。たとえば、自分の記憶あるじゃないですか。自分のなかの記憶を探したときに、これは誰でも経験があると思うんだけど、ほとんど不確かなんだよね。今の自分はそこにはいないんですよ、でもいたことはなんとなくわかるんだけど。そういう自分っていうのが一個あって、そういうこと全部が文章書くっていうことの僕の基本にあったんですよ。自分が文章を書くっていうのはどういうことか。で、その時の感じって、もちろん自分が書いているんだけど。自分じゃないやつが書いているみたいになるときがあるんですよ。

他人の記憶の中に入る。人生の瞬間に入り込む

鈴木 たとえばね、翻訳しているときは、これが仕事の成果としてうまくいってるかどうかとは別問題なんだけど、作家が憑依するみたいなときあるんですよ。そのときは、ものすごくきついんですよ。違う肉体が入ってくるから。いや、入ってくるんですよ、リズムとかね。文章っていうのは肉体的というか身体的なもんだと思っているから。本当にすごい作家というのは、歩き方とか喋り方とかその人のたたずまいまで文章に入っている感じがする。そういう作家が僕は好きだっていうのもあって。それを翻訳すると憑依するときがあるんですよね。それって本当にきつくて実際に僕は病気になっちゃうんですよ。こっちとは肉体が違うからあわないんですよね。完璧にあったら気持ちいいんだけどそうはいかなくて病気になっちゃう。

ところが、『離人小説集』を書いているときは僕は心地いい感じだったんです。翻訳しているときみたいに憑依されるんじゃなくて、今度はこっちが憑依したんです。一人一人の作家いるじゃないですか、彼らはそれぞれ文章書いてて。彼らの文章にこっちが憑依しようとしたんです。僕の方がね。

その感じというのはとても気持ちよくて、途中で誰が書いているのかわからなくなったときもあって。だからこの小説はぜんぜん苦痛じゃなくて。まあ文章書くのってトンカチで頭叩いたりさ、昔の作家なんて畳の上はいずりまわって1行書くとかっていうようなこともあったりするんだけど、これはそういうようなことはまったくなくて。だから、他人の記憶の中に入るみたいな感じで書いたんです。

——この小説は出てくる人物がすべて作家ですね。で、作家なので作品がありますよね、その作家の文体をパスティーシュ的に書いたという面もありますか?

鈴木 いや、それはね、やりたいと思って文体は変えているけど、完全にはそうなってない。だからパスティーシュを書こうとしたわけではないんですね。

——私もパスティーシュでも評伝でもないと思って読みました。文芸評論とも違うし、やはり小説としかいいようのないジャンルなんですね。

鈴木 もちろん作家たちの本も改めて読んだんですけどね。ただ、全部読んで作家の評伝を書こうというような感じの読み方ではなかったですね。まあ、以前から読んでいた作家だというのもあるんだけど、評伝を書く気はなかったんですよ。彼らの人生を書くことによって、彼らの人生のある瞬間に入り込みたいっていう。ま、それが目的かな。

——人生の瞬間に入り込む。

鈴木 でも、その瞬間っていうのも、彼らが書いていたからこそ、その瞬間があったと思うから、彼らの書いたものと切り離して考えることはできないんですけどね。だからできれば彼らの文体を真似したいと思ったけど、それは途中で放棄したところがあって。だけど読んだらわかると思うんですけど、ランボーの出てくるところなんかものすごく早く書いたんです。速度とか文章のリズムは、その人のものにあわせようとしたかな。ま、それって思考のスピードだから。彼らが何を考えていたかっていうのと、どんなふうに考えてたかっていうこと。

優れた作家は、もういっぺん声から身体が出てくる

鈴木 これはね、散歩小説でもあるんです。散歩してて、いろんなこと頭の中に出てくるじゃないですか、だからその作家が散歩しているふうにして書いたともいえる。

——確かに。散歩のシーンがとても多いですね。

鈴木 僕、今ね、脚悪いから、散歩とか山登りに憧れているんですよ、歩けないから。(笑)

——歩くことにはリズムがありますよね、さっきおっしゃった、文章の身体性ともつながってくると思うのですが。

鈴木 いや、だからね、それが出てる作家っていうのが僕は好きなんですよ。で、それは優れた作家だと思ってて。
声が声になって身体から出てくる、それはだれでもやることなんだけど、そういう作家っていうのはね、もういっぺん声から身体が出てくるんです。僕にはそういう感じがするんですね、それはもう極限的な状態なんだけど。声は一回肉体を通過しているから非常に肉体的なもんなんだけど、声からもういちど身体が出てくる。そういう人っているんですよ、何人かね。

——この小説集で、鈴木さんが選ばれた作家たちがそうなんですね。

鈴木 ただね、離人っていうのは離魂病とかね、精神病のなかに分類されているけれども、僕自身は精神病的な含みっていうのは全然ないんですよ。精神病と思ってないというか。だから精神病の小説を書こうとしたわけじゃないです。たぶん書くとか読むとかね、そういうことの一番根本にはそういうことがあるんじゃないかなと思っていたから、それを散歩できないから実験したみたいな感じかな。

だから、散歩が、脚が悪くてできないというのは肉体的なことなんですね、マイナスの方向だけど。肉体的なことが好きで、僕は舞踏家の友達とかもいて。優れた舞踏家というのも同じような感じがする。彼らもずっと思考してるんだけど、それを彼らは肉体で表現する、だからといって肉体だけでもなくて声もあるし。逆に、彼らは動くけど止まる時が素晴らしかったり。不動性ですよね。だからもう、動きのなかにも、動かないということがある。喋るということには黙るというのもあるし、全部セットになってて、それは散歩のときに頭の中でどっちも出てくるわけですよ、ぶつぶつ言いながら歩いてるわけじゃないよ(笑)、黙って歩いてるんだけどね。

僕はずっと身体性がテーマというか、そういう強迫観念がありますね。それはほかの舞踏の人とか見てもそういうふうに感じるし、好きな作家もそういう人が多かった。自分の肉体を問題にしていること。でも肉体を唾棄する場合もある、それも含めてのことですけどね。

※その2に続く

(5月12日、神戸市内で取材。協力:アビョーンPLUS ONE。撮影: 塚村真美)

『離人小説集』鈴木創士著:幻戯書房(2020)