「マスク記」
マスクが落ちている。それもあちこちに。
彦根に住んでいた頃、積もった雪の上にときどき手袋が落ちているのを見つけることがあった。たまに、靴下が落ちていることもあった。いちめん白いので、落とし物はよく目立った。
それにしても、どういう経緯で靴下なぞを落とすことになったのだろう。あるいは、コインランドリーか何かの帰りに袋からこぼれ落ちたのだろうか。わたしはよく家の中で靴下がなくなることがある。長いことどこに行くのか不思議だったが、引越のときに洗濯機をどけたら台の隅からいくつか出てきたので、なるほど、こんな風に「なくなる」のかと納得がいった。
いや、話はマスクだった。
ご多分にもれず、わたしの近所のドラッグストアでもマスクはずっと売り切れている。職場の行き帰りに、店先に「今日の入荷はありません」という張り紙があるのを確かめて通り過ぎる。もう二週間くらいそうなのだから、いちいち確かめなくてもよさそうなものだが、つい目が行ってしまう。
うちには少しマスクが残っているが、これは自分が咳を始めたときのためにとってある。マスクは外からくるウイルスを防ぐというよりは、自分がウイルスをまき散らすのを防ぐためのものである、という話を見聞きしたからである。とはいえ、直接咳や飛沫を浴びる場合にはマスクをしておくとよい、という話もこれまた見聞きしたことがある。たくさん持っていたならせっせと着けて歩いていただろう。
仕事を終えて久しぶりに散髪をしに理容店に行ったら、駅に近くて安い店だというのに、わたし以外に客がいない。理容師さんはマスクをしており、しかもこのご時世だからか、あまり声を張らない。何度か聞き返すと、鏡に向かって自分の耳のあたりを示すので、ああ、もみあげの位置のことだなと思ってこちらも耳のあたりを指さす。なんだか無言劇みたいだ。
駅で人を待ちながら、たわむれに改札を出る人を100人数えてみたら、マスクをしていない人は12人だった。自分が世間の12%のひとりだと思うと、これでいいのかしらんと弱気になってしまう。
ところが、いざ飲み屋に入ると、店はけっこう繁盛しており、誰もマスクをしていない。飲み食いする場所だから当たり前なのだが、ノーマスク党の集会にでも来た気分だ。もちろん多くの党員は鞄やポケットにマスクを隠し持っているのだろう。
しばらく東京を離れる人を送るべく、飲んで食べる。口は呼吸をし、食べ物を食べ、声を出すための器官であり、誰かに向けて声を出すことは、他個体とやりとりをして生きる動物であるヒトの基本的な習性である。食べながら話す場所は賑わう。ある種のウイルスはそのヒトの基本的習性と共に進化し、ヒトの呼吸器で繁殖し、宿主の口を介して伝播し、さらには宿主に咳をもよおさせることによって伝播の頻度を飛躍的に高めるにいたった。だからといって、わたしたちは食べることもしゃべることもやめることができない。あとで手洗いをしてうがいをするけれど、いまは手を口に運ぶ。食べておしゃべりをする。
飲み屋を出て道を歩いていると、ほらまたマスクが落ちている。白いから、アスファルトの上でよく目立つ。雪の上の靴下が反転したみたいだ。マスクは冬の季語だというけれど、これからはどうだろう。
マスクして離ればなれに春の旅
(3/3/2020)