「地下から地上へ」

 

東京の地下鉄は間隔が短い。逃したと思ったらすぐに次のが来る。乗り逃したという感じがしない。滋賀に住んでいた頃は、一本逃すと30分待つのが当たり前だったから、寒空の下、眼の前でドアが閉まったりすると本当に悲しい気持ちになった。でも東京なら、ぼうっと立っている間にもう次の電車に乗り込める。

そして東京の地下鉄は長い。通勤に使う東西線は、一つの車両が20mある。それが10両編成だから、全長約200m。ところで、わたしが乗り込むのは最後尾で、降りる出口は最前にある。だからホームをてくてく歩く。最悪、眼の前で電車が出ていったとしても、時速3kmすなわち分速50mで歩いて行けば、最後尾から最前までの200mを歩くのに4分かかり、そのあいだに次の電車がホームに滑り込んでくるという寸法だ。実際のところ、前の電車がいつ出てしまったのか知らなくとも、とにかくホームを歩いていれば、歩いているうちに電車がやってくる。たいへん効率がいい。東京では、ホームに立ち止まることさえしなくてよいのだ。暖房の効きの悪い待合室の硬い椅子に座って、30分もパソコンを打っていなくともいいのだ。

そんなわけで、しばらくの間、地下鉄のホームを毎日歩いていたのだが、じきに飽きてしまった。地下は天候によらず、いつも光の加減が同じだし、広告ばかり見るのもつまらない。それによく考えてみたら、数分くらい早く着いたってどうということはないではないか。

寒い朝、天気がよいので、ホームを歩くのはよして、最後尾から乗って最後尾の出口から降りることにした。通りに沿った店の多くはまだシャッターが降りている。どの店も間口は広くない。なんだか地下鉄の車両を見るように街が見えてしまう。1車両に何軒の店を並べることができるだろう、2軒?3軒?

中に一軒、八百屋が開いている。これから仕事に向かうというのに八百屋に寄る用事もないのだが、せっかくなので入ってみる。なかなかよい車両だ。この車両は動かない。表通りを人が追い越していく。そして野菜だらけだ。野菜だけじゃない、果物もある。バナナが安い。一房90円。そういえば朝食にバナナをとるというのがいっとき流行っていたな。昼食にバナナというのもよいではないか。それでバナナを買って、ビニル袋をさかさか言わせながら歩くと、やはり表を行くのはすがすがしい。空を見上げながら悦に入っていたのだが、いざ仕事先に着くと、車両マジックは消え、机の上に置いたバナナは一房七本あった。ナナバナナ。明らかに買いすぎた。仕事をするうち昼が来て、二三本は食えそうな腹心地になってきたが、それでも余る。しかたがないので、昼過ぎのゼミに持って行って配ることにした。一番乗りにやってきた学生が、えー、バナナですか、と、気乗りしない様子で皮を剥き、所在なくバナナを食っている。こうして見ると、いい大人がバナナを食べている絵というのは間抜けである。わたしもさっきまで間抜けだった。また買ってこよう。

(2/12/20)