「ベアーズ・クロニクル」蔵出し上映会 10月16日(水)

山本精一、津山篤、奥成一志らキョーレツな個性をもつ男たちが必要とした調整型の人物。年齢は山本・津山から9歳下。おあつらえ向きの男がやって来た。(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)

いまは太鼓職人。 一文字に結ぶ口は 昔からの口癖

 

──どういう経緯でベアーズのスタッフになったの?

石隈 順番が変なんですけど、オレ、天狗あらしってバンドやってて、天狗あらしでベアーズに出たのが最初(1988年4月)で。その時の対バンがハレルヤズやったから、津山さんと会ってるはずなんですけど、話をした記憶もないんですね。そのあと、人づてに奥成さんと知り合いになって。バイトの帰りに夕方6時頃、ベアーズを覗いたんですよ。そしたら、もぎりやってPAも照明も奥成さんひとりでやってはる。で、「手伝いますよ」と。ライヴハウスの仕事にも興味ありましたしね。3回くらい覗いてるうち、「バイトで来ぇへんか」と声かけてもらって。行ってたラーメン屋のバイトと掛け持ちでベアーズに入るようになるんです。それからしばらくしてからですね、山本さんと会うのは。トレンチコート着て受付に座ってはる。奥成さんとえらいタイプ違うなぁと。

──それが88年のオシリくらい?

石隈 そうですかね。

──88年10月24日にはKUKUで出てる。

石隈 そのKUKUはオレの前のヴォーカルがいた頃やないかな。その日は確か、オレは対バンのRED RIVER JACKで出てた。KUKUはヴォーカルのことでえらいもめてて。「入らへんか?」って誘われるんです。で、入った最初のライヴを奥成さんが気に入ったらしくて「次も出て」って言われるんです。そう言われたら、嬉しいじゃないですか。スタッフの声かけてもらうのは、そのあとちゃうかな。

──ベアーズのスタッフになって変わったことはあった?

石隈 オレはキリング・ジョークとかニューウェイヴを好きでよく聴いてたんですけど、サイケを聴くようになって、そっち方面に傾倒し始める。ちょうどそういうの流行ってましたからね。ベアーズでもフラワリー・ファニングスとか人気ありましたから。当時の看板バンドいうてええくらい。

89年頃のフラワリー・ファニングス。Hippi(vo&g)の前髪パッツンだけで伝わるものがある。

──仕事は何を任された?

石隈 とにかく階段の上(ベアーズ入口)にたまる客を散らすことですね。これがなかなか難易度が高い。すぐ横ではダメで、高速(東50m先の阪神高速1号線環状線)の下あたりまで移動させんとあかんのですよ。当時、オレは21歳ですから。年上の人に言わんとあかん。パンクの人らとか怖いじゃないですか。ヨコノリの人らはやんちゃやし…キツかったですわ。でも、ここで身につけたスキルはベアーズやめて20年になりますけど、うちの近くに深夜3時まで営業してるゲームセンターがあって、どうしてもヤンキーがたまるんですよ。誰が注意してもダメだったんですけど、オレがすいすいヤンキー達を散らすもんやから近所で一目おかれるようになりました(笑)。

──それはすごい!

石隈 奥成さんは独自の世界を作ってはったし。奥成さんの回には話に出てこなかったけど、奥成さん、毎朝、パチンコ屋に行かはるんです。パチンコめちゃくちゃ強くてパチンコで勝ったカネでベアーズに機材を次々買い足していく。オレが笑ったのは、90年前後、ベアーズにピンクや水色のパイプ椅子があったのを憶えてる人もいると思うんですけど、ある日行ったら、スプレーでパイプ椅子に色塗ってるんです。その日のバンドの連中も入るなりそれ見て、ひっくり返ってましたからね。「奥成さんがいた頃のベアーズが大好き」いうヤツ、結構いるんですよね(笑)。
津山さんが勝手にドリンク付けてた時代は、一緒に大国町のアローズ(ディスカウントショップ)にドリンクを買い出しに行ったり。津山さんは2箱肩に担いでひょいひょい歩く。オレは1箱がええとこ。さすが山に行ってるだけのことはありましたね。それにドリンクとか言うてるけど、ベアーズにはドリンクを冷やす冷蔵庫もない。生ぬるいドリンクやから、お客さんは1口飲んだだけでゴミ箱に捨てる人もいて。それを片付けるのがえらいことでした。

石隈(左)と津山篤。ベアーズ受付前で。 90年頃のデイリーan掲載「街の情報マン〜関西地下音楽のいま」ページより。 石隈の口は一文字。

保海(良枝)さんがチケット・ノルマの話をしてましたけど、ノルマ制を持ち込んだの、オレなんですよ。93~94年…オレは勝手に〈25-26問題〉(石隈自身の年齢と呼応)と呼んでるですけど。オレと同世代の連中も結婚したり就職したり…バンドから足を洗うみたいになってきて、ライヴやっても客は6~9人とかしか来ない。売り上げも一時の半分くらいになって、大赤字が何カ月も続く…。それを打開するにはノルマ制しかなかった。
これまで出てくれてる常連バンドには無理やけど、新しいバンドにはチケット10枚つける。バックは最低35%。これは破格の設定でした。ほかに来る客がいたら50%なんてすぐ。同時に、ホールレンタルも強化して儲けを出していくんです。けど、レンタルやると、精神的にも肉体的にもキツい。レンタルはどうしても土曜・日曜に集中するでしょ。同じ日の取り合いになる。替わりの日を用意せんとあかん。
それにレンタルばっかりが続くと、山本さんから「土日はライヴハウスの看板なんやから、ええブッキング入れんと」とダメ出しが出る。そりゃオレも「石隈のブッキングはええ。見所だらけや」と言われたいですよ。でもレンタルを断ると、悪い噂も広がる。
高校のサークルとか毎年やってくれて楽しみにしてる人たちもいるわけですよ。日が決まらなくて、よそに行かれたら、もうベアーズに帰ってこないですからね。そういう人たちに支えられてきましたから。

──石隈くんは気配りの人やね。

石隈 そんなんオレのキャラやないんですけど、次から次へと問題が出てくるから。レンタルには、企画持ち込みってのも絡んでくるんです。若手のパンクの子らが自分らでバンド・セレクトしてイベントのタイトル付けて。そんな子らは、勢いあって、服屋やってたりして顔も広い、おしゃれで演奏力もしっかりしてる…みたいな。客も来て盛り上がる。1回そういうのが成功すると、同じような企画をしたいって人らがいっぱい出てくる。企画をしないとステイタスがつかないみたいなことにもなって、半年前からスケジュールを押さえるバンドも出てくる。ええ日の取り合い。
スケジュール押さえる解禁日を3カ月前にするとかルールを作ったりもしました。で、そんな中、ニューヨークやグァムに行ったりしたもんやから「あいつら、自分らからカネ取って儲けてる」とかいう話が噂になったりもしましたけど。ほんま鬼のように働いてたんやから。説得力ないかもしれませんけど。

──企画はそれまでにもいろいろやってたよね。「メディテーションデイ」(89年)、「UFOシンポジウム」(89年)、JOJO広重さんと吉本昭則さんの「ロック茶話会」(89年)、「上方漫才血まつり」(89~91年, M.C.BOO『がんばれ!ベアーズ』に詳しい)とか…。

石隈 月1回ヘンなことをやってましたね。「UFOシンポジウム」は奥成さんの声が宇宙人みたいや…ただそれだけのイベント。山本さんを筆頭にみんなで「来て」「すごいから」「絶対」とか…電話かけまくって。客も50人くらい来ました。あれは詐欺やったかもしれません。

──「石隈音楽祭」(91年)というタイトルのイベントは何をしたの?

石隈 そんなんありましたっけ。憶えてないですけど、「第1回」と銘打ってるから「第2回」もやらなあきませんね。憶えてるのは、90年2月14日のKUKUの変名バンド「単車尼穴」ですね。男前なことばっかりやるのってカッコ悪いと思って。ヨゴレもやろ!って。それのおかげで、ベースにやめられた(笑)。

──91年リリースされたベアーズのコンピレーション『TOD UND FEVER』は石隈くんの仕事でしょ。KUKUも参加してる。

ベアーズ・コンピ『TOD UND FEVER』(UNMO-0001)。ジャケはD.K.ウラジ。DADO、KUKU、ありぢごく、有、SNAKE HEAD MEN、ROOTS、DARK MINE FIELDS、CHILDREN COUP D’ETAT収録

石隈 最初、コンピ出すってなって。山本さんがレーベル名は〈ウンモ〉って決めて。「ウンモ星人ってのがおってやな」とかいう話は聞いたけど、山本さんがどう関わったかは謎。奥成さんも関わってたんですけど、途中でフェードアウトですよ。音源は集まってくるし、「いつ出るん?」とか訊かれても答えられない。2年ほど宙ぶらりんになってました。ちゃんとしてたら89年には出たと思うんですけど。「ジャケどうしよ?」「ジャーリンカーリンの(D.K.)ウラジさん、絵ェ上手いらしいで」「頼もか?」…そんな感じですよ。山本さんから「帯つけてよ」と言われて「やります」と返事したけど、やらずにそのままリリースした。プロデュース能力ないですからね。

89年5月24日、ジョン・ゾーン、ビル・フリーゼルらライヴのフロントアクトを務めた、嶽本野ばら(中央)、D.K.ウラジ(左)のツインヴォーカルを擁するジャーリンカーリン。

──KUKUの音源って残ってるのは結局このコンピに入ってるのだけ?

石隈 ですね。あと、アルケミーから出た『愛欲人民十二球団』にアストロ球団って名前でオレの声が残ってるくらい。あれもひどい話で、夜中、呼び出されて奥成さんのマンションに行ったら、林(直人)さん、前さん(前川典也)とかがいて、あの音源が録音されたという。オレの黒歴史ですわ。

──ベアーズ・コンピはその後、何枚か出てるけど。

石隈 三沢(洋紀)がコンピやる時も話はあったけど、オレは「せぇへん」いうたんですね。『TOD UND FEVER』で懲りたから。オレのブッキングの次が三沢…。人を育てるのって大事ですね。オレがベアーズにいたのは10年になるのかな。ずっと一生ベアーズにいると思ってたんですけどね。

1991年5月マンスリー 提供:石隈学

1992年6月マンスリー 提供:石隈学

*メモ

  • JOJO広重:〈KING OF NOISE〉非常階段で活躍。アルケミーレコード社長。
    吉本昭則:エッグプラントのスタッフを経て、レコード店〈○か×〉店長。
    D.K.ウラジ:ウラジミール・パウダリーナの名前でドラァグ・クイーン・パーティ『ダイヤモンド・ナイト』で活躍。イラストレーター。
    林直人:アウシュヴィッツほかで活躍した。アルケミーレコード元専務。2003年逝去。

 

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