大和郡山市は金魚の名産地として名高いが、現状はそう自慢できるものでもないらしい。今は、熱帯魚のエサとなる金魚やメダカさえ作っていればいいからだそうだ。
数年前から、大和郡山市では夏に「金魚すくい選手権大会」を開くようになった。発案者は、市の観光協会の石田貞雄会長。
「郡山で何かひとつ名を残そうと思ったら、金魚より他にない。金魚でイベントしたりお祭り騒ぎすることで『郡山の金魚』がいつまでも残るやろ」
愛郷精神あふれる石田会長は“金魚博士”と呼ばれている。吉川弘文館が出版した「国史大辞典」の金魚の項目は、石田さんが書いた。そして数千点に及ぶ、金魚をモチーフにした美術工芸品のコレクションを持つ。
金魚にのめり込んだきっかけは、昭和30年代に「大和郡山市史」をまとめる際、郷土史を研究していた石田さんが、金魚の歴史を担当することになったことに始まる。
「金魚の歴史といっても、文献資料はあまり残っていない。特に郡山の物は皆無に等しかった。そこで、歴史を調べるのに都合のいい物はないか、と思ってたら、江戸時代の浮世絵、あるいは江戸~明治~大正頃の日本画や油絵、それに陶器に金魚を描いた物があった。それぞれの時代に第一級といわれる金魚を描いたと思う」集めてみると、金魚の形だけじゃなく金魚の観賞方法までわかってきた。
「例えば、日本画の掛け軸に、ガラスの金魚鉢をヒモでくくって、天井からぶら下げてある絵がある。陶器には腹側から描いた金魚の絵がある。ぶら下げて金魚を裏から見るのも一つの観賞方法やったんやね。江戸時代の有名な『朝顔日記』の挿絵にも、主人公が軒にぶら下げた金魚を見ている図がある。ということは、金魚のお腹ばっかり見てたわけや。そしたらお腹に赤い色が着いてると美しいわな。金魚は普通、お腹が白い。背中が白でお腹が赤かったら素晴らしいということになる。背ぬき腹赤いうて、そういう金魚は珍品で高い」
金魚をはじめ、郷土史の研究をするようになったのは、石田さんが戦後、満州から引き上げて、郡山に帰ってからのこと。33歳の頃だ。
「僕の父は医者やけれども、じいさんまでは13代ずっと石屋。旧家やから古い物は家にたくさんあったしね。昔の石屋は石工といって、今でいうたら土木建築やね。奈良の興福寺から猿沢の池に行く石段あるでしょ。あれはじいさんの自慢の仕事。馬に乗って上れるようにしてあるらしい。母親があの石段の所で『お前のじいさんはこの石段をこしらえたんや。人間ちゅうのは、どんな仕事しようが、後々になって褒められるような仕事をせないかん』と僕ら兄弟皆によう説明したで。僕も何か、死んだ石田はええ仕事残したな、と言われるように、それで郷土史を一所懸命勉強しとんねん」
金魚コレクションは、つい最近、市に寄贈されたところだ。「金魚博物館」ができるといいな、と思う。郡山に金魚がいなくなったとしても、金魚博士がいたことや、博物館はずっと残るだろうから。
文・写真 塚村真美
(「花形文化通信」NO.99/1997年8月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行)