可愛いロバに効率よく旅をさせる方法、水玉に就いて
文・嶽本野ばら
ロリータ系メゾン、メロディバスケットを手伝っています。デザイナーはシャーリーテンプルのオリジナルメンバーの一人である栗原茂美さん。シャーリーテンプルは子供服ながら1974年に設立したDCブランドの先駆。しかし様々なことが謎に包まれたままです。だから栗原さんと話していると、おったまげる内幕を知らされることになる。
「最初はオリジナルの袋を発注する資金もないし、第一、そんなに商品が出ないから、既成のもので間に合わせることにして水玉柄を探したんだけど、その時代に可愛い水玉柄の袋なんてない。仕方なく皆で、無地の袋に一つずつマジックで水玉を描いたの。あの頃から水玉への憧れとこだわりがあったのよね」
こういう人といると何処までも非生産的な話題で盛り上がります。ロバを飼おうとか、ロバの牽く荷馬車にお洋服を詰めて世界中を周るとか、そんなことばかり話し合います。
栗原さんの案で絵本を作ることになりました。文章は僕が担当で絵は松下さちこさん。可能な限りアナログという松下さんは主に色鉛筆を使う。打ち合わせ時、スケッチブックに描かれたモチーフとなる二匹のユニコーンの絵を観た栗原さんはいいました。
「時間を掛け、とことん誠実に作業してある。こういうのを観るとちょっと、後ろめたくなる。お洋服の世界って、結局、胡散臭いから」
芸術的な被服はあれど、被服は芸術ではない。コムデギャルソンが恐るべきフォルムを発明しようと、マルタンマルジェラがどれだけコンセプチュアルになろうと……。クリスチャン・ボルタンスキーに大量の黒衣を円錐状に積み上げた「ぼた山」という作品がある。観た時、心臓が潰れるような衝動を憶えた。服を積んでいくだけだから模倣は可能だ。しかし断じてこれはディスプレイではない。
芸術とファッションの境界線は?の質問に僕は明確に答えることが出来ます。芸術は効率に捉われない。一方ファッションは効率から逃れられない。キャンバスに描き切れなければ、画家は新たなキャンバスを継ぎ足す。出来なければ壁や床に続きを描く。或いは自分の頭の中に——。ファッションは一反の布から何着のパターンが取れるのかをなおざりにしない。思い通りにならないからとて布を買い足す行為をしてはならない。冬のコレクションが気に入ったからとて、夏まで店頭に置いておく訳にはいかない。どれだけ良いコートでも、7月のトルソーがそれを着ているお店に僕達は入らないでしょう。
制限内で如何に最良を得るか? ヴィヴィアン・ウエストウッドの代表作、カウボーイTシャツは70年代から何度もリメイクされている。版ズレしてるふうに重ねてプリントしてあるヴァージョンもあり非常にパンキッシュなのですが、狡猾な遣り方です。プリントは版に最もお金が掛かる。一個の版を重ね刷りし、新作にみせかけ、なおかつ画期的!と思わせる。ヴィヴィアンというデザイナーはこのように効率のよい手法を得意とします。「MASTERS」としてルイ・ヴィトンが名画をプリントしたアイテムを発表したのも、人のものをパクったほうが効率がいいからに過ぎません。アプロプリエーションなんて関係ない。ひこにゃんが流行ったのでくまモンを作りました的な戦略と変わらない。
ファッションの世界に著作権がないのも、効率が最優先だからです。メゾンにおいて競い合うのは知的所有権ではなく技能。ジョン・ガリアーノの真の評価はデザインの斬新さではなく、天才的なバイアスカットにある。技術に特許が与えられたとしても腕前にそれを与える指標など誰も持たない。だからデザイナーをクチュリエ(女子の場合はクチュリエール)と、呼ぶ。
ヘンリー・ダーガーなどのアウトサイダーアートが感動を与えるのは、効率を全く考慮せず作られた常識外れの熱量の消費のせいでしょう。自分で描いてても下手だと解るだろうに、完成させてしまう(誰に誉められる訳でもない)作業の不合理に僕達は打ちのめされる。
しかしながら服飾の宿命である胡散臭さに違和感を持ち、どこまで効率の悪さが赦されるかを試すデザイナー達が、いる。栗原さんは神業を繰り出す有能なクチュリエールであるにもかかわらず、今でも隙あらば袋にマジックで水玉を描こうとする。どれだけの費用が掛かるか、何処で飼うのか考えもせず、可愛いというだけでロバを飼おうとする。
死ぬ間際、俺の人生は得だったと振り返ることはあれ、効率がよかったなぁと満足するなんてないを承知しているのに、僕達は全てにおいて効率のよさを優先させます。癖のようなもので仕方ないのかもしれませんが、せめて効率が胡散臭いものであるのを意識していたい。だって効率が悪いのに捨て置けないものを、愛と呼ぶのでしょう。性欲と愛情の境界線は? それもまた効率の有無ですよ。
(6/10/19)
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