リアルだけれど、リアルじゃない。ナチュラルだけど、ナチュラルじゃない。

本当の自分の姿はなんだろう。

少年探偵団のように彼は自分の辺境へ行く。歌をうたいながら。

子供の頃は、誰でもやったんじゃないだろうか。たとえばいつも家から見えてる遠くにある給水塔の下まで行ってみるとか、神社の祠の裏はどうなっているのかと回りこんでみるとか、川沿いにどんどんどんどん歩いていくとか、家と家のすき間だけを通って行けばどこに出るのかとか。そうやって自分が行って帰ってこれる距離を延ばし、自分の生きてる面積を知った。

芸能生活20周年、あがた森魚は大人だけど、ちゃんとその作業をやりつづけている。歌もうたうが、朗読もし、俳優もやれば、映画も撮る。今日もあがた森魚はおでかけだ。

 

——あがたさんが朗読することは自然に思う。どっちかっていうと歌も言葉をのせてる感じがするから。

あがた たとえば詩吟の世界とか、ほんとに自然発生的に言葉の上にリズムがあって、それが伝達の手段になったりするナチュラルな方法があるけれど、僕の選んでる方法はナチュラルじゃない。言語でしゃべるんじゃなくて、メロディや言葉があった上で、そこに自分の表現をのせていく、みたいなね。それと、ボーカリストって頭脳とか肉体とか含めてそのこと自体が楽器で、一番ナチュラルな楽器なんだけど、僕はどんな小さな会場でも必ずマイクを使って歌う。エレクトリックギターも電気通さないと蚊の鳴くような音しかでないのと一緒で、オモシロイよね。

——人間は原始的な管だけど、20世紀の終わりに機械と一緒になって、ものすごくいい組合せになったと思う。あがたさんは、ずっと声というか歌を必ず続けてますよね。それはどうしてですか?

あがた そうだよねえ。イチイチ説明するものなんだけど全部矛盾をはらんでるのね。自分にとって歌うってことは、たとえば好きな人に対して〝好きだよ〟っていうすごくリアルで一番説得性のある自分の能動的行為なんだけど、それは同時に一番リアルなものを否定したいから歌ってるんですよ。っていうのは、だったら言葉でしゃべる、あるいは手紙を書いたらいいんだけど、ただ普通にしゃべるっていうナチュラルな方法は本能的に嫌ってるんでしょうね。だから演技にしても舞台より映画の方が好きなんだな。それは、演技をまたスクラッチしたり、コラージュしたりしてるわけでしょ。

——演技をすることと歌うことの違いみたいなものもみえてきますか?

あがた 僕は、俳優さんの世界を第三者としてみてしまうんだけど、ある女優さんがね、オモシロイこといった。「演技は嘘ができない」って。役の設定が第何惑星から来た人で年齢不詳ですっていうのなら、自分のイメージでできるけど、あなたの役は50歳で子供が何人いてどういう家庭でって場合だと、リアリティを大前提にして、その上でその人のキャラクターをつくって表現していかなきゃならない。演技はリアリズムって最低の約束がある。ところが音楽って五線譜にメロディが並んでるとしても、歌いたい人はその歌を解釈した時にどんなリズムで、どんな唱法で歌っても自由。その抽象性が俳優がセリフしゃべるのと歌い手が歌を歌うのとの一番大きな違いかな。俳優ってリアルに演技すればするほど、うまいってことになるけど、音楽って、歌がうまいかヘタなのかが問題じゃなくて、ある種のリアリティをどうやって置きかえてしまうかっていうところにあると思う。この現実と違うところに、僕らの意識がもうひとつあるんだなっていうところをどう伝えるかが、歌にはあるんじゃないかな。

——音楽の自由さとか抽象性を追求する意味で、違うユニットでライブやったり、いろんなことを多面的にやってるんでしょうか?

あがた 自分の自画像を自分でどうやってみるのかってのと同じで、自分の声で自分の本当の姿はなんなんだろうとあの手この手で自分に問うてるところはありますよね。スタジオワークで自分の声をいろんなエフェクターでいろんな形にしてみるのも、雷蔵のユニットつくることにしても、ライオン・メリーさんとやることにしても、ソロアルバムをつくることにしても。言葉にすると薄っぺらになっちゃうけど、現実を遊離して超越したところの自分の表現に到達するため。そのために逆に一番リアリティのあるものを一回プロセスとして通過する年が1990年だ、と去年の年頭に考えたのね。雷蔵も逆に僕のリアリティを確認する、反あがた的な、一番あがたらしくないもの。

——芸能生活20周年ってきいたんですけど、20年やってきて、そういうことやってるからリアリティがあると思います。若い人がいろんなことやってたら、ヤミクモにやってるように思うけど。しぼってくってのが普通の考えでしょ。それが逆で最近とみにはげしく振幅してる。(笑)

あがた 表現のコアがあるとして、自分のフィールドはどこまであるんだろうと確認するために海に素潜りするようなもんですよね。すごく奥行きのあるアーティストってみんなそういうことやって、また戻ってくるわけね。僕の場合もタンゴにいってみたりとか、大正ロマンいってみたり、雷蔵いってみたりとか、でもあがたはここにいるんだから、あがたはここで成り立つんだけど。それは僕かも誰かも知れないけど、自分のフィールドがどこまであるかって確認するために、自分の辺境にいってる時に、そこで力尽きて終っちゃう場合もあるんですよ。(笑)

——飛び散ってくんじゃなくて、また戻ってこなければね。

あがた ピカソにしても、2、3年ごとにディテールが変わっていくっていうのは、そういう作業やり続けたすごい人だな、と思いますね。また、すんごくいやな言葉の使い方だけど「いつまで死んだフリしていられるかな」とか「いつまで死なないフリしてられるかな」とかね。稲垣足穂にしても10年周期くらいで出たり、沈殿してしまったりとか、ああいう潜伏能力がどれだけあるかってね。

——でも、それはやっぱり疲れません?

あがた たいへんなことですよね、すごくバカなことやってんな、と思いますよ。南方熊楠もブームだけど、彼なんかやってんのみても、粘菌の研究なんて、そんなことして何になるんだろうってことをさ、彼はやらずにはおれなかったんだね。

——熊楠も中心太いけど周りまで行ってて……ホラも多いですけど。本読んでて笑ったのが夢を記憶する術っていうので、夢を見た時は脳の中に夢の物質が脳に潜んでて、起きるとあふれるから、脳に浸み込むようにじっとしたらいいとか。そういうのとイギリスのアカデミーでやるのと同じようにやってる。ダ・ビンチも小鳥をつれて街なか歩いたりとか、そんな幅がみんなすごく少なくなってきたっていう気がして。それはひとつは疲れるってことだと思うんですけど。みんな疲れなきゃいけないんじゃないかな。

あがた 疲れることはしない方がいいんだって考えがあるでしょ。たとえばCDでもある一定音域の上を切っちゃったりするように、必要じゃないことや理解できないことは断つんですよ。科学者でも新しい理論を発表しても、理解されなきゃ、狂人でかたづけられる。だから坂口安吾なんかでもドラッグやって、要らない雑草の根を刈り取ってく、そうしないと社会に適応できない。あるいは、「人間ってもっとピュアにみんなそれぞれがナチュラルに持ってるものを自然に出して、もっと言いきったほうがいいんじゃないか」と思っても、僕がたまたま自分の中にある種持ってしまったものは世の中にどれだけ有効なのかなと考えると、単に僕が普賢岳みたくひとりで火砕流を流してるだけで他人にとっちゃ迷惑だけなのかも知れないしさ。本人はある役割を持って生まれてしまったカビとか雑菌みたいなものだからしょうがない。20世紀の終わりに自分の役割を過不足なく全うするのが僕の役割かなって気もする。

——他にはいそうでいないですよね。

あがた そういう資質を持ってる人はいつもどんどんやりづらいだけなの。やりづらいから、ますますもがいた瞬間、わけのわかんないことをやってしまうの。ただそういうことでしかないと思うな。昔はほんと、猛々しい人も神もいっぱいいたし、自然の中にそういう友もいたから、そんなエネルギーも授かりあえたのかも知れないけど、だから、もっと猛々しいというか、疲れさせる人がもっと出てこないとオモシロクないよね。

——今度のアルバムはリミックスってことですが、当分はまだ核にはもどらず?

あがた ……で、核ってどこが核なんでしょうか?

(インタビュー:藤本由紀夫・構成:塚村真美/写真:松蔭浩之)

 

「花形文化通信」NO.31/1991年12月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行)