妹が母親とセックスするのは脱コード現象なのかに就いて

文・嶽本野ばら

©京都服飾文化研究財団

 

「ドレス・コード?:着る人たちのゲーム」展プレセミナーを聴講しに京都国立近代美術館に出掛ける。

ここで僕は「身体の夢」展(1999年)を観ている。かつて失神するほど極限まで女性の腰を締め付けてきたコルセットを起点として服飾史を読み解こうとする展覧会では、19世紀のクリノリンやバッスルのほか、20世紀、身体をコルセットから解放したポール・ポワレ、或いはシャネル、97年発表のコム デ ギャルソンの瘤のようなものがあちこちについた奇形の作品(Body Meets Dress)まで幅広いタイムラインを見渡せる被服が並んだ。この企画もその延長線上にあるに違いない。

ジェフ・クーンズを起用したルイ・ヴィトンの「MASTERS」シリーズが紹介される。モネの「睡蓮」などをプリントしたバッグ。美術館のスーベニールとどこが違うのか? デザインかマテリアルか? 否——とキュレーターは説明を終える。答がタイトルにもある〝コード〟であるのを実際の展示で発見させようとするが如く……。

ジェフ・クーンズ×LOUIS VUITTON 2017年, 京都服飾文化研究財団所蔵, 畠山崇撮影

この手法をキュレーターはアプロプリエーション(剽窃)と称したが、それは美術の見解に過ぎない。僕らは90年代、ヴィヴィアン・ウエストウッドがフラゴナールの作品をパクったことを知っているし、70年代、マルクスの肖像画を転用したシャツや白雪姫が7人の小人と乱交している戯画のTシャツを作り、ディズニーから激怒されたことも知っている。ブランドを象徴するオーブのマークすらイギリス王室からの拝借だ。

被服にシミュレーショニズムや脱コードの大義はない。そもそもTシャツに何故、文字や絵がプリントされるのか? 無地では淋しいので入れるだけだ。翻訳すると意味不明な文言のある安物のTシャツがあるが、あれは服飾にとって何らミスではない。僕が捨てようとしたヒステリックグラマーのパーカーを妹が着ている。僕と違い孝行娘だが、そのパーカーにはMOTHER FUCKER——とある。意味を教えたが、妹は気にしていない。MOTHER FUCKERのパーカーで毎日、母と台所に立つ。

HIVと戦うメッセージが書かれた通称エイズTシャツをマルタン・マルジェラは毎シーズン出すが(THERE IS MORE ACTION TO BE DONE TO FIGHT AIDS THAN TO WEAR THIS T SHIRT BUT IT’S A GOOD STARTこれもヒステリックグラマーの〝MOTHER FUCKER〟と大差ない。無論、メゾンの主張であり販売利益は寄付されるが、本当の目的は同じロゴで毎シーズン、カラーを変えるアイテムを発表することで服飾に於ける変化の外側と内側を入れ替えるとどうなるかの実験がしたいだけだ。24時間テレビのチャリティTシャツもシーズン毎にバリエーションが出るが、通常外側に起こる〝変更〟を内側へ逆転させることなど意図しない。

バタイユは目的の為に変化があるのでなく変化そのものが目的だと論じた。何故、スカート丈に流行があるのか? 服飾は美術や科学のように正解を追究しない。〝変更〟をどれだけ正確に具現化できるのかを課題とする。美術が正円に近いものを描けるかを目標にするならいかに360度に近づくかを競うのが服飾だ。

服飾のコード(規範)は〝着ることが出来る〟だ。コム デ ギャルソンが瘤でいくら変形させようとそれには襟があり袖がある。裾から足を出せないものはズボンではない。所属を定義するコードは扱う者が決定するのであって被服が選別するものではない。

従い展示されるなら美術館ではなく博物館の領分だが、まぁ、仏像や屏風はコードで美術品にもなれば工芸品にもなる。恐らくうちの妹は気にしないだろう。

 

COMME des GARÇONS(川久保玲)  2018年春夏, 京都服飾文化研究財団所蔵, 畠山崇撮影

 

「ドレス・コード?—着る人たちのゲーム」展
京都国立近代美術館:2019年8月9日(金)-10月14日(月・祝)
熊本市現代美術館:2019年12月8日(日)-2020年2月23日(日)

 

詳しくは展覧会の特設サイトで。