苦楽園という地名の由来はひょうたんだった!(1)

by 丸黄うりほ

①阪急苦楽園口駅。花見客でいっぱい、駅前も大渋滞

②中新田川沿いの桜が満開でした 

昨日の続きです。地図に出ていない「はり半」名残の「箪瓢橋(たんひょうばし)」を無事見つけることができた私。心はほくほく、帰りは下り坂で足取りも軽く、阪急甲陽園駅にも往路より早く着けました。

そこから再び電車に乗って一駅目の苦楽園口駅で降りました。ちょうどソメイヨシノが見頃で、夙川のほとりは花見客ですごい人出です。駅前は車で大渋滞していました。(写真①)

今度はなぜここへ来たかというと?もちろん、ひょうたん物件を探すためです。しかし、難易度はさらにアップ。ここには「箪瓢橋(たんひょうばし)」のような目標物がないのです。でも、ひょうたん好きなら、いつか足を運ばねばならない街だとずっと思っていました。というのも……。

苦楽園という地名が、ひょうたん由来だということを、みなさんはご存知でしょうか?

これって、あまり知られてないんじゃないかと思うのです。かくいう私も、阪急沿線のことを調べていて、偶然知ったのですが……。

この付近はもともと山林だったそうです。明治時代の終わり頃から温泉開発が始まり、また外国人が「この付近の景色は美しい。山の上に家を建てたら良い眺めだろう」と話しているのを聞き、大阪の実業家・中村伊三郎が、明治44年に本格的な別荘地として開発に乗り出しました。中村氏の人脈によって、財界人や華族が土地を購入してどんどん別荘を建て、昭和初期までは温泉地としても賑わっていたそうです。

開発者の中村氏は、家宝として一つのひょうたんを大切にしていました。そのひょうたんの名前が「苦楽瓢」といい、そこから「苦楽園」と命名したというのです!

このひょうたんは、もともと尊王攘夷派の代表的な公卿であった三条実美の持ち物で、文久3年の七卿落ち事件の際に、死を覚悟して、このひょうたんで他の公卿たちと別れの杯を交わしたそうです。しかし、歴史が動き無事に戻って再会することができ、再び杯を交わした。「苦のあとに楽がある」、そういう縁起の良いひょうたんとして「苦楽瓢」と名付けられたらしいです。

中村氏は、そのようなひょうたんをどうして手に入れたのでしょう?

そして、そのひょうたんは今どうなっているのでしょう?

何か手かがりはないものかと調べてみたのですが、「苦楽瓢」の行方について記されたものはみつかりませんでした。ただ、苦楽園の中心地点は街を流れる中新田川(写真②)にかかっている「三笑橋」の付近であり、その近くには中村氏自身の邸宅があったことがわかりました。

私はひとまず、「三笑橋」まで行ってみようと決意しました。もしかしたら何か手がかりが見つかるかもしれない……!

(続きます)

(953日目∞ 4月7日)

※次回954日目は奥田亮「でれろん暮らし」4月10日(月)にアップ。

955日目は丸黄うりほ「ひょうたん日記」、4月11日(火)にアップします。