「はり半」名残の「箪瓢橋(たんひょうはし)」

by 丸黄うりほ 

①交差点に「大師道」の案内が

②甲山山頂へと向かう坂道の途中に、ありました!

③「箪瓢橋(たんひょうはし)」です

④可愛い!頭でっかちの逆さまひょうたん!

⑤高級料亭「はり半」の庭園にかかっていた

⑥もとはここが川だったのですね

⑦「たんひょう」は12個と8個、全部で20個

⑧「はり半」の建物の一部だそうです

昨日に続いて、きょうも兵庫県西宮市のひょうたんスポットを紹介していきましょう。

阪神電車と阪急電車を乗り継いで、私が次に足を運んだのは甲陽園です。目的地は、かつてこの地にあった料亭「はり半」の跡地。そこに、ひょうたんの形を彫り込んだ橋が残されているという情報を、複数の方からいただいていました。しかし、今度の目的物件はもうそこにはない跡地ですから、当然ですが地図にも出ていません。

私はだいたいこのへんかとあたりをつけて、グーグルマップで調べてみました。どうやら阪急甲陽園駅から北へ徒歩20分くらい。甲山山頂へ向かう大師道の途中にあると思われます。

歩き出すとすぐに有名なケーキ店「ツマガリ」があり、大行列ができていました。しかし、それ以外にはお店も少なく、思っていたより急な坂道で、車は走っているものの歩いている人はほとんどいません。

少々不安になり始めた頃、交差点に「大師道」と書かれた石が建っていて、とりあえず道は間違っていないということがわかりました。(写真①)

「はり半」は、播磨屋半兵衛(平山半兵衛)という人が明治12年、大阪・心斎橋に創業した超高級料亭です。谷崎潤一郎の「細雪」に登場するなど、当時の富裕層や文化人、食通に愛され、皇室御用達でもあったようです。

昭和2年には甲陽園にも店ができ、約一万坪の敷地に美しい庭園と、木津宗匠の設計によるいくつもの建物や橋、展望台などが点在していたのだとか。調度品も一流のものばかりで食器類は北大路魯山人が手がけ、もちろんその料理は最高級といわれていました。

しかし、第二次世界大戦の空襲で大阪市内の店舗はすべて焼けてしまい、戦後は甲陽園店のみに。それも不況のあおりを受けて2005年に閉店したのだそうです。

その「はり半」の商標が、「箪瓢(たんひょう)」だったのです。ひょうたんではなく、「箪瓢(たんひょう)」。頭でっかちの、逆さまのひょうたん。

実際にひょうたん栽培をしていると、たまに頭でっかちのひょうたんができます。これを、「たんひょう」と呼ぶことを以前私に教えてくださったのは岐阜県養老の「ひょうたん会館」の店員さんで、ずっと私はこの店員さんの冗談かと思っていました。しかし、「はり半」は、明治時代に開業した時から心斎橋店の前にこのマークのついた橋をかけ、別名「箪瓢庵」と呼ばれていた。そして甲陽園店の敷地内を流れる川にも、同じ商標を彫り込んだ「箪瓢橋」をかけたのだそうです。

……ますます勾配がきつくなる坂道を、私はぜいぜいと息を切らしながら登っていきました。周囲は高級マンションやお屋敷ばかり。住民のみなさんは車で移動されるのでしょう。

と、目の前のカーブに!

「たんひょうはし」という文字と、橋の欄干が見えました!

近寄ってみると、紛れもなく探していた「たんひょう」です! 欄干の反対側には漢字で「箪瓢橋」と書かれています。自動車が走る大師道を挟んで反対側にも「箪瓢橋」の欄干が残されていました。かつてはこの道の下に川が流れていたのでしょう。今は片側が公園、片側が崖になっていました。(写真②〜⑦)

数えてみると、公園側の「たんひょう」は12個、崖側の「たんひょう」は8個ありました。ひょうたんもいいけれど、頭でっかちの「たんひょう」もすごく可愛いですねー!

「箪瓢橋」から少し山手へ登ったところには、かつての建物の一部が移築されていると聞いていたので、そこにも行ってみました。本当に門だけが並べてあるので、なんだかシュールです。(写真⑧)

あとで調べてみると、「はり半」の建物のほとんどは、丹波篠山の「牟三荘芸術村」というところに移築されたということがわかりました。また、元「はり半」の総料理長だった人が食器などを引き継いで、西宮に料亭「立峰」を開かれたということもわかりました。もしかしたら、そのお店には「たんひょう」モチーフのものもあるかもしれません。

さらに、創業者・平山半兵衛さんの墓は大阪市天王寺区の一心寺にあり、その墓石の形もやはり「たんひょう」だということが判明しました。

しかし、平山半兵衛さんは、なぜひょうたんではなく「たんひょう」を商標にしたのでしょうか?まだまだ解けない謎がいっぱい。私のひょうたん探しもまだまだ終わりそうにありません。

(952日目∞ 4月6日)