戯瓢(けほん)踊を見たくて御坊まで[7]「殿様も賞賛した風流踊り」
by 丸黄うりほ
7回に渡って、ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございます。きょうはいよいよ「御坊祭」と御坊で見つけたひょうたんレポートの最終回です。
「本願寺日高別院」の正門のほうから「カン、カン、カン、カン」とリズムを刻む鉦の音が聞こえてきました。同時に、先頭に黒い箱を持った黒い着物の人、次に紋付袴の人、続いて花笠を被った「戯瓢(けほん)踊」の華やかな踊り手一行が、一列になって入場。鉦や鼓、太鼓。そして、ひょうたんを象ったという渦巻状の木製の棒をそれぞれ手にしてらっしゃいます。
境内の中央に到達すると、紋付袴の人が本堂の前に置かれた椅子に腰掛けました。踊り手はぐるりと輪になり、続いて左右二列に向かい合って並び、一礼して着席。一定の拍子を奏でていた鉦、鼓、太鼓は、だんだんと速く叩かれ、やがて止まりました。
黒衣の人が箱を差し出し、紋付袴の人(「御書読人」というそうです)が書状を受け取り、うやうやしく読誦しました。これが結構長く、約7分くらいあったと思います。
この書状は「四恩状」と呼ばれるもので、紀州九代藩主・徳川治貞から賜ったものだそう。四恩とは、仏教用語で「この世で受ける四つの恩」のことで、「戯瓢踊」の歌詞でも四恩について説かれているそうです。「戯瓢踊」は、紀州徳川家の藩祖である徳川頼宣が賞賛したとも伝えられ、「御坊祭」の本宮で第一番に奉納されるなど、演目のなかでも別格扱いであることがわかります。
読み上げが終わると、踊り手が一斉に立ち上がり、再び鉦と太鼓が鳴り始めました。踊歌は独特の節回しで、対面した二組が入れ替わったり、足踏みをしたりして踊ります。拍子はときどき速くなったり、止まったりします。このリズムとメロディは西洋音楽に慣れた耳にはとても変わったものに聴こえ、リード楽器である鉦を打つのも、歌うのも踊るのも難しいだろうなと思いました。
踊りにひきつけられ、初めての体験に心が舞い上がり、あっけに取られているうちに、奉納は終わりました。踊り手のみなさんは入場の時と同じく黒衣の人を先頭に列を組み、それぞれ手にした楽器を叩きながら、今度は逆向きに正門のほうに向かって帰っていかれました。
その間、約10分ほど。あっという間でした。
私の少ない知識と語彙(ごい)ではとても表現できないものを目撃したという印象が残りました。踊り手が年配の男性ばかりなので厳しい雰囲気もありつつ、ユーモアというか、洒脱さとでもいうのでしょうか。そう、まさに「ひょうたん的」と形容したくなるような、明るさ、抜け感が踊り全体から漂っていました。
その雰囲気に近いのは、狂言かもしれないと思いました。私の知っている範囲に限定すれば、節分の日に京都の北野天満宮で見た「北野追儺狂言」が近いニュアンス。六波羅蜜寺の「空也踊躍念仏」や、空也堂の「歓喜踊躍念仏」も念仏踊りであり、似ているところがあると思いました。
「戯瓢踊」の余韻に浸っていると、境内では奴踊りが始まりました。続いて見事な獅子舞。先週も書いたように、明日の本宮ではこれらの演目はすべて他の組と同じく「小竹八幡神社」に奉納されるのですが、「戯瓢踊」だけは、美浜町の御旅所で、朝の海を背景に行われるのだそそうです。
「それはもう本当に素晴らしいですよ!きらきらと朝日に海が輝いて……」と、毎年見に来ているというツウな観客の方が教えてくださいました。
「御坊祭」の宵宮が本格的に盛り上がるのは夜にかけての時間帯であり、氏子各組の宮入りがこれからどんどん行われます。
そして翌朝。本宮の奉納第一番は、海を背景にしての「戯瓢踊」で始まり、「小竹八幡神社」への深夜までの奉納に引き継がれていくのです。
うっかりと翌日に他の予定を入れてしまったことなどもあり、この後私は電車に乗ってそそくさと大阪に帰ったのですが、「うう、来年は宿をとって、朝早く起きて、本宮の「戯瓢踊」を見る。絶対にそうする!」と思いました。
私は電車の中で、御坊で撮った写真をじっと眺めました。その日出会ったひょうたん。その日出会った音とリズム、踊り、風景、人々の笑顔。それらすべてを頭の中で何度も何度も反芻(はんすう)しました。
(1261日目∞ 12月18日)