電波に乗って小踊りしながら茶の間に届いたキダ・メロディあれこれ。
「チキンラーメン」に「かに道楽」「ヤングリクエスト」。
オタマジャクシに関西楽天味をすりこんだのんきな名曲の数々
浪花のモーツァルトの集大成盤が、ついに出てしもた。キダ・タロー 「花形文化通信」NO.43/1992年12月1日用 撮影:藤原一徳

11月21日に出た『浪花のモーツァルト  キダ・タローのすべて』なる堂々2枚組のCDはそもそも、キダ・タロー生誕60周年を記念して企画された。こんな風流な企画を考えついたのは先生ではなくて、SLC(サウンドトラック・リスナーズ・コミュニケーションズ)の奇特な人々だが、音源を探すのは至難の業だったらしい。グニャグニャのテープやたった1枚現存するソノシートに残るコマソン、生徒会の協力で歌ってもらった校歌(これが唯一の新録)なんてのもある。さらに、仲宗根美樹歌う “4秒” の『有馬兵衛向陽閣』や『プロポーズ大作戦』『アホの坂田』『王子動物園の歌』『人情縄のれん』など時間をさかのぼり業界を横切ってかき集められた。いわばキダ・タローフルコース。「寝る前にきくとあなたもキダ・タローになれる」という、聞かずにはおれないようなウルトラ珍な名作である。

――こういう全集が出るのは、ご自分ではいかがですか。

キダ テレビ・ラジオのテーマソングやCMソングも含めて一括してこんなCDで出すのは、たぶん私が初めてやないかと思います。歌謡曲とかでは有名な作曲家の方でしたら出してらっしゃると思うんですけど、関西の取るに足らない作曲家がこんなにしていただくのは大変ありがたいことやと思っております。

――今まですごくたくさんの曲を手がけてらっしゃいますよね。

キダ 作曲・編曲を合わせると大体1万ぐらいになります。ですけど私どもはこういう仕事を一つ終えますと、大体スタジオにほかして帰るんですね。テープを下さいということもあまりありませんし、向こうが下さった場合、たまに置いてある程度で、資料は作曲家の手元にはほとんどありません。

――残らなくてもいいと。

キダ 楽譜は持って帰っても、紙というのは重たいもんですし、家じゅう紙だらけになって整理するのに困ります。で、置いとく場所もないですし、また置いておく必要もまったくありませんから。今回のはふって湧いた話で、私はこういうのを作る気は全くなかったんです。第一、こんなことしていただけるような作曲家ちゃいますからね。ですから、作るに当たりまして、作曲だけでも3000ぐらいはあるんですけど全部散逸してるので、私の記憶でこれ作った、あれ作ったと言うたんをSLCの人が全部足で集めてくれはったんです。でも、私以上にたくさん作ってはる方がCD出さんとね。私ごときが出すのはおこがましいんですよ。その辺が、ちょっとかなんのですけど。

――記憶に残ってたのは、やはり気に入った曲だったりします?

キダ 日清チキンラーメンの一連の曲とか、やっぱり世の中に頻度が高く流れた曲が多いですよね。それと、みなさんご存知なくても思い出す曲もあります。また集めて下さった中には記憶になくて、「これ俺とちゃうで」というのもありましたけど、よう聞きますと、かすかに私の手法が出ておりまして、そうかなというのもあります。まあ、それだけエエ加減に作ってるいうことです。

――先生はずっと作・編曲家で来られたんですか。

キダ はい。ざっと40年。学生時代、18才からやり始めて、ソロとしては19才からやっています。

――音楽は子供の時からやられてたんですか。習ってたとか。

キダ いえ、習ってません。我々の年代の者はみんなほとんど独学ですわ。楽器は家にたまたまアコーディオンがありましたんで、アコーディオンを弾き始めて、学生時代はバンドをやっていました。バンドいうてもバイオリンやピアノやアコーディオンとか、とにかく演奏できる楽器をそこらじゅうから寄せ集めたもので、いわゆる洋楽をやってたんですね。ジャズとかやりたかったんですけどジャズはできませんでした。演奏者がおりませんからね。それでもバンドがヤミつきになって大学 (関学)には入ったんですけど、結局行きませんでした。

――作曲家になろうって思ってらしたんですか。

キダ あのう、作曲家いうのはうどん屋さんとは違うんですね。うどん屋さんは資本があって、うどんの作り方覚えて、店があってのれんを出して「今日からうどん屋やります」言うてお客さん来てくれたら成立するわけです。でも、作曲家はまず注文がなかったら、何も作曲家のていをなさないわけです。「はい、今日から作曲家です」言うたかって基盤がないと誰も相手にせえへんのですね。私が作曲家になれたのは、ぼちぼちとそういう注文がいたただけたわけですけど。キダ・タロー 1992年 撮影:藤原一徳――1番初めに作ったのはどんな曲だったんですか。

キダ もう大昔ですから曖昧模糊としておりますけど最初に作って編曲したんは私がバンドマンをしてた大衆キャバレーの社歌みたいなもんです。『パラマウントの歌』いいまして正司歌江さんが歌ったんです。

――どんな歌だったか覚えてます?

キダ いえ、まったく覚えてません。

――始められて、どういう曲を作ってみたいというのはありました?

キダ 作ってもアカンかったら2度と言うて来ませんから、何か作ってるうちに自分のルートが見えてくるわけです。ですから、映画音楽を作りたい、ドラマやりたい言うても一ぺん注文が来てアカなんだらそういう評価ができてしもて世間が許さんわけです。で、私も食うていかなあきませんから、やりたいとか進む方向はテキが決めるんです。世間が。キダ・タローが辛うじていけるのはこのジャンルやって、もう決まってますからね。たとえば違う地球に行って誰もキダ・タローを知らん世界でイチからやって行ったら違うかも知れませんけど、まあ、他のもんは頼んできませんわ。

――それじゃ、CMソングやテーマソングとか作ってらして、どういう所に一番苦労されますか。

キダ モーツァルトやったらわかりませんけど、我々はない知恵をしぼって一生懸命作るだけです。別に作り方のノウハウちゅうもんはないですし。ひらめきとか急にできるとかいうこともないんですね。どういう曲にするかイメージをひたすら考えるんです、道歩いとっても。しょっちゅう、それが気になってるんです。それで作る時は、それこそひねくり倒して、ない知恵がカラッポになるくらい絞り出して、それでも出てこーへんからもうひとつひねり出して。結局、作ったもんというのは、自分の無能の再認識やと有名な作家の方でもおっしゃってますから。皆さんプロになりましたらそうやと思います。だからできるだけ作りたくないというのが私を含めて大方の作曲家の本音やないかと思うんです。

――でも、それで作・編曲合わせて1万というのはやっぱりすごいです。

キダ すごいこともなんともないんですよ。たとえば『家族そろって歌合戦』なんかですと象さんチームとうさぎさんチームとかあってトーナメント形式で勝ち抜いていきますね。それで1組あたり10曲ぐらい歌います。すると全部合わせたら40何曲もテレビ番組1本で編曲せなあかんわけです。昔はそういうのど自慢番組がいっぱいありましたから。少なくとも8000曲ぐらいはやってる勘定になるんですね。この間計算してみたんです。作曲の方にしても40年間、それで食べて来たわけですから。その日慕らしみたいなもんですけど。

――この80数曲の中で、気に入ってらっしゃる曲ってありますか?

キダ ありません。私は自分の曲を聞くのはイヤなんです。けど、イヤでも番組のテーマ曲なんは私がスイッチを切っても嫁はんが聞いてる場合ありますし、よそ行ってかかってる場合ありますから、好き嫌いに関わらず聞かざるを得ないんです。で、最初は「もうかなん」と思ってましても聞いてるうちに慣れるんですね。そやから、「もうしゃあない」という気ィですわ。「しょーもない曲作りやがって」いうのが本音ですわ。だからそこから目をそむけていたいんです。でも、あえて好きな曲を申しますと『ABCヤングリクエスト』のテーマ曲なんかは日本の名曲の1つになると思っております。

――還暦を過ぎられて、これからというのは?

キダ 注文が来る限りその注文どおりに作ろうと思いますけど、今、ほとんど依頼はごさいません。ただ、還暦とかいうのは不愉快極まりないですな。年とったいう証明ですから。それがどないしたんじゃっ!と思っております。

(インタビュー:やまだりよこ/写真:藤原一徳)

  • 編注:ウェブでの再掲にあたって一部表記を修正しています

 

「花形文化通信」NO.43/1992年12月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行

「花形文化通信」NO.43/1992年12月1日/繁昌花形本舗株式会社 発行)