アルケミーレコードの総帥にして
“キング・オブ・ノイズ” 非常階段の中心人物がベアーズを語る。
(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)
──非常階段のベアーズ初登場は『非常階段』本によると1988年9月15日となってるんですが、憶えてますか?
広重 全然憶えてない。
──UFO OR DIEとの対バンで『BURN OUT DREAMERS』って企画だったらしい。
広重 88年だとエッグプラントがまだあったんで、基本的にエッグプラントに出てたから。山本(精一)くんか(山塚)EYEちゃんに誘われて出たんだろうけど。ボクは88年の春に結婚してJUNKOさんと京都に住んでたと思うんですよ。美川(俊治)くんはまだ大阪にいたから、3人でやってると思うけど。
ボクらみたいなノイズとか、インディーズでも変わった音楽をやってると、お客さんはあんまり入らないから、やるとこあんまりないじゃないですか。京都より大阪のほうが人口多いので、こういう音楽を好きな人も多い。大阪の人はわざわざ京都まで観に来ないけど、京都の人は大阪まで観に来るんで、ボクらも大阪でやらざるを得ない。ミューズホールやバナナホールは当然敷居が高いからエッグプラントでやってたんだけど、エッグプラントが89年末になくなったので、90年以降、アルケミーのイベントはファンダンゴでやるようになる。バンドとかはいいんだけど、ノイズはファンダンゴでやるほど集客はない。ベアーズは小さいところですからね。ノルマもなかったし。そういうような考え方をしてたかもしれない。
──アルケミーは1990年前後…いろんなバンドを抱えてましたからね。(アルケミーレコード)
広重 88年、花電車、メスカリン・ドライヴ、フォーク・テイルズ、アウシュヴィッツを収録した『ウエスト・サイケデリア』が出たあたりから、関西のいろんなバンドをやるようになって。それと、レコードからCDの時代に変わっていくんですね。昔の物を再発したり、関西のレイプス、ダンスマカブラを出したり、サイケデリックなものをまとめたり、そういうのを東京方面に紹介したり。
そんなだったのが、92年にボクは東京・明大前にスポーツカードの店を開店して東京に住み始めるんです。アルケミーの事務所は大阪に置いていたけど、半分は東京。半分は大阪。大学を卒業してからの4年間(1982〜86)も東京に住んでたんで、どっぷり大阪の人間ではなかったですからね。
──ほかにベアーズで記憶にあることは?
広重 ししょう(北島建也)にエンジェリン・ヘヴィ・シロップを紹介されたのをよく憶えてます。エンジェリンはエッグプラントにも出てたんだけど、観てなくて。で、ベアーズで初めて観た。まだまだ未熟なところがあったんだけど、自分が関わんないと、このバンド消えちゃうんじゃないか…そんなことを、ベアーズ受付前の狭いスペースでししょうと話したことを憶えてますね。
岩崎(昇平)くんがやってた『ノイズ・フォレスト』のシリーズにボクは関わってないし、あと、山崎(マゾ)くんが2000年頃からやり始める『ノイズ・メーデー』はよく呼ばれて出たこととか。マゾくんとふたりでやったとき(2004年)はGARADAMAのカッキー(柿木義博)に頼んでステージ全面にマーシャルのキャビネットをぎっしり並べてスタンガンと金属バットを振り回してお客さんの中に飛び込んでいった。楽しかったなぁ。山崎くんはAMS(Alchemy Music Store)で一時期働いてたこともあるし『ノイズ・メーデー』のDVD-Rみたいなのを出したりもしてたんですね。
(遠藤)ミチロウくんソロとJOJO広重ソロで出たのもベアーズでしたね(07年9月14日)。ソロで対バンしたのはその日が最初で最後になってしまった。ミチロウくんの方から「せっかくだから最後に何か一緒にやりましょうよ」って言ってくれたんですね。それでジャックスの「マリアンヌ」をやることになった。ミチロウくんはJOJO広重をノイズの人と思ってるから「ものすごく影響を受けてますよ」といったら「うれしいなぁ」っていってくれた。
あとはかなり最近になっちゃいますけど、BiS階段(13年9月28日)をやったり、白波多カミンちゃんとの初音階段(14年5月19日)、あヴぁんだんどとあヴぁ階段(16年1月11日)とかをやったことですね。ベアーズは狭いじゃないですか。BiS階段なんて、チケットは即行売り切れで当日はぐっしゃぐっしゃになった。BiSのみんなが「ベアーズでやりたい」というぐらいだから、ベアーズはやっぱり関西の象徴みたいなところはあるんでしょうね。その日は中屋(浩市)さんと美川くんがお酒飲んで盛り上がってアイドルの子たちが楽屋でちっちゃくなってた記憶があります。あっちが主役なのに。福井のローカル・アイドル、せのしすたーのレコ発に呼ばれたとき(15年8月16日)は真夏の一番暑いときにエアコンが壊れてて。死にそうになりました。
林(直人)くんの最後のライヴもベアーズだった。03年の『ノイズ・メーデー』(03年5月17日)。ノイズ・ギター・ソロで出演して一緒に楽屋にいたのを憶えています。その後、入院して。それが最後になってしまうんですね。
トーク・イベントも結構やりましたね。『ロック茶話会』(1989年3〜8月)をやったときは、もっと言葉で伝えた方がいいんじゃないかと思って。吉本(昭則)さんを引っ張り出してレコードの話をした気がしますね。『エッグプラント同窓会2010』(10年4月4日,心斎橋BIG CAT)をやるとき、その前夜祭みたいなのを映像流しながら、けーやん(坂田敬子)とか(吉本昭則、山本精一ほか)と喋ったり(10年3月26日)もしました。
──山本さんの記憶によると、ベアーズでの初企画は「JOJO広重×シモーヌ深雪」らしいんですが、記憶ありますか? 1987年以降のスケジュールを情報誌等で確認する限り、その情報は見つからないんですが…。
広重 シモーヌさんとやった記憶ありますよ。シモーヌさんとはエッグプラントで1回やってるんですよ(89年8月19日,エッグプラント)。その時、「ノイズの人に呼んでもらえてうれしかった」という話を聞いた記憶もある。非常階段はちゃんと記録を残してるので、間違いないだろうし。87年前後にソロで出ることはしてないと思う。ボクがソロでやるようになったのは90年以降だと思うんですよ。やってるとしたら、エッグプラントの直後ぐらい? ベアーズでやったような記憶もあるけれど、記憶違いかもしれない。
──謎ですね。(※注)
広重 山本さんのキャラクターというか、おもしろいところが引き出されたコヤだとは思いますね。『愛欲人民十二球団』ってオムニバスのレコ発(91年1月6日)もやりましたね。そういうよそではできないような企画もさせていただきましたよ。夢のあるっていうか、ボクらがふだん冗談でいってるようなものを実現するような場所ではあったと思うし。それは山本くんが思ってるような世界観と近かったかもしれない。
やっぱりボクらインディーズっていうか、自主制作ってのが根っこにあって。自分たちがおもしろいと思うモノを具現化したい、しっかり記録に残したいと思ってレーベルなんかも始めたし、ライヴでもお客さんの目の前で再現しようとやってましたけど、ベアーズが最右翼というか、一番おもしろいこと、過激なこと、ほかじゃまるっきりできなかったことをやれた現場であったと思いますね。非常階段の40周年イベントは東京だけだったけど、ベアーズでは30周年をやらせてもらいました。09年だったかな。ゲストに坂田明さんを呼んで。坂田さんはボクの憧れのプレイヤーでしたからね(09年8月22日)。
──非常階段30周年前後はいろんなイベントが目白押しでした。「JOJO広重ノイズ十番勝負」ってのもやってますね。
広重 05年には「ギター・インプロゼーション十番勝負」ってのもやってるでしょ。徳さん(徳山喬一)とも一緒にやった記憶がありますね(05年4月20日)。螺旋階段(高山謙一+頭士奈生樹+JOJO広重)の再結成もやりましたね(09年5月31日)。
──山本さん、須原(敬三)くんと「早川義夫大会」(09年9月11日)もやってますね。
広重 それを早川さんがツイッターで見つけて「知らない人達が勝手にやってるけど、ボクは別に構わない」とか書かれてドキドキした憶えがありますね。その後、知り合って一緒にやるようになるんですけれど。ボクが50歳になったとき(広重の誕生日は59年9月9日)、記念にやったんですね。「好きなことやったらいいじゃないですか?」といわれて、「早川義夫さんの曲をやりたい」って。ほかにもいろいろやってますよ。猿股茸美都子と一緒に花電車のカバーをやったり。「早川義夫大会」やった後、早川さんと一緒にやることになったり、「裸のラリーズ大会」(10年2月5日)の後には水谷(孝)さんから電話をもらったり。自分が憧れてたミュージシャンに繋がっていくきっかけみたいなことになったりしました。
音楽を長くやってて良かったなぁという瞬間は随分ありましたね。エッグプラントがあったころはアルケミーレコードを始めてまだ5年目くらいで必死に関西シーンを何とかしなきゃみたいだったのが、ベアーズに出るようになって、ちょっと肩の荷が下りたというか、自分の好きなことを楽しんでやらせてもらってるという感じですね。いまもアルケミーレコードはありますけど、もう新人を出すことはないし、バック・タイトルの整理であったり、ご縁があってやらせてもらってるものとかをちょろちょろやってるくらいなんで。ほぼほぼレーベルとしては晩年だと思いますけれどね。
エッグプラント時代がものすごく気合いが入ってたとすれば、ベアーズに出るようになってからは、林・広重のコンビからJOJO広重の個人レーベルになっていく流れを表すような企画をやってますね。いまは完全にボクのプライベート・レーベルですね。
──石橋(正二郎)さんなんかは「ノイズもベアーズで聴くとロックや」と言ったらしいですけど、ベアーズならではのノイズを感じたことはありますか?
広重 ハコがちっちゃいんでデカい音は耳に痛いんですよね。エッグプラント、ファンダンゴとかと違う密室感というか。PAが保海(良枝)さんでなくなったあたりから音量、音質なんかも大分変わったかもしれないですけどね。
やっぱりマゾくんが『ノイズ・メーデー』とかやるようになって。ボクらがやってた世代から次の世代にノイズがシフトしていくことはそれで良かったと思います。ベアーズという空間でやりたいようにやらせてもらって。その後、オシリペンペンズとかスカムみたいなものに繋がっていくんですけれど。
非常階段、ハナタラシ、メルツバウとか、そのへんは第1世代なんでみんなちょっと簡単には声かけにくいとこがあったかもしれませんけれど。ベアーズでは比較的若い世代、それこそ岩崎くんあたりからだと思いますけど、それが繋がっていったのは良かったと思うし、ボクらと断絶しなかったというか、わりとシームレスに繋がってて。ボクもソロで参加させてもらったり。こういうのが関西ならではなのかもしれませんね。東京だと完全に断絶しちゃう。次の世代と交わることはあまりなかったですからね。やっぱり山本さんが店長というのが大きいと思いますよ。
──『ノイズ・メーデー』もかれこれ20年ですものね。
広重 三沢(洋紀)くんがいってたけど、マゾンナ・ワンマン…良かったですよね。1分で終わって、みんなニコニコして帰るっていう。「今年は去年より長かった」とかいいながら(笑)。ああいうのはほかのコヤではできないんじゃないですか。マゾンナ・ワンマンは何回かやってるでしょ。ボクが憶えてるのは中屋さんがタイム・キーパーをやりだして。「今年は何秒だった」とか発表してた。1度、マゾンナのライヴでトータル時間が69秒だった時があって。「69杪!ロックや!ロック!」って。何の意味もないけど、喜色満面で「69杪や!さすがや!」っていってたのを憶えてます。
※注 「JOJO広重×シモーヌ深雪」企画の話は石原の単なる聞き間違いだと判明しました。JOJO広重さん並びに、シモーヌ深雪さん、山本精一さん、ごめんなさい。(石原)
*メモ
- 『非常階段』本:JOJO広重ほかによる共著『非常階段〜A STORY OF THE KING OF NOISE』(2010年/K&Bパブリッシャーズ刊)。ほかにJOJO広重著『非常階段ファイル(DVD付属)』(2013年/K&Bパブリッシャーズ刊)も。
- JUNKO:非常階段メンバー。スクリーミングvo担当。
- 美川俊治:非常階段メンバー。発信機担当。自身のソロ・プロジェクトINCAPACITANTSでも活躍。普段は一流企業のサラリーマン。
- 明大前のスポーツカードの店(Jo’sスポーツカード):日本で最初のスポーツカード専門店。1992〜2011年営業。
- 中屋浩市:非常階段サポート・メンバー。電子音担当。自身のバンド、NASCA CARでも活躍。
- 坂田敬子:エッグプラント店長。当時まだ20代前半の若さだった。
- BiS階段、初音階段、あヴぁ階段:2010年代中頃、非常階段はアイドルとの合体企画が目白押し。
- シモーヌ深雪:シャンソン歌手/日本を代表するドラァグクイーン。「西の女帝」といわれることも。
- 遠藤ミチロウ:スターリンのvo。ソロほかでも活躍。非常階段とはスター階段で合体。2019年逝去。
- 早川義夫:シンガーソングライター。ジャックスを経てソロに。レジェンドのひとり。
- 水谷孝:サイケデリック・バンド「裸のラリーズ」の中心人物。レジェンドのひとり。
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