「Y字路は低くて暗い方をゆけ」
このところ、外出といえば散歩か買い物だ。
大学が、4月7日の緊急事態宣言を受けてロックアウトされ、在宅勤務となってしまったため、職場に行く道を歩いて楽しむというわけには行かなくなった。わたしは関西にいた頃から喫茶店で長居をして原稿を書くというのを二十数年来習慣にしてきたのだが、いまはそれもできない。それで気晴らしに、新宿区や文京区の「渓谷」を毎日一時間ほど歩いている。もう職場への道すがら、という縛りもないので、方角にはこだわらずに、これまで行ったことのない暗渠を訪ね歩くことにしたのである。おかげで、かつての水窪川、弦巻川、谷端川、東大下水、紅葉川などをたどり、牛込や小石川の暗渠に、少しずつ親しむようになってきた。
とはいえ、4月13日に都から休業要請が出されたため、趣味の店は大方閉まっているし、飲食店は朝5時から夜8時までは営業できることになっているものの、外出自粛によって客足が遠のいていることもあって、テイクアウトに切り替えている店も多い。誰と会うわけでもなく、どこの店に立ち寄るわけでもない、ただ土地のことを考えるだけの散歩だ。
その、土地のことを考えるだけ、というのが、意外に楽しい。たとえば神楽坂は、飲食店をたずねてまわったならガイド本が一冊できてしまう街だけれど、たとえ一軒の店も紹介しなかったとしても、やはり楽しい。
それで、神楽坂上の話の続きだった。そう、明治の地図の上に、いまこの神楽坂上を貫いている太い道が、見つからないのである。
現在の神楽坂上は四つ辻の交差点になっている。いわゆる神楽坂商店街は、ここを基点として南東から北西へと続く。これと交差するように、大久保通りが南西から北東へ伸びている。ところが明治16年の地図を見ると、神楽坂上から北東への道がない。そこには、行願寺(行元寺)というお寺の敷地が広がっている。そして寺を迂回するように、左手に細い道が伸びている。これが、前回記した水路に沿った小道なのだ。
明治後期の地図を見ると、すでにこの寺はなく、現在と同じように北東へ太い道がのびている。神楽坂の歴史を知るときに頼りになるサイト「てくてく 牛込神楽坂」によれば、行元寺は明治40年に神楽坂から西五反田に移ったらしい。ということは、移転とともに、寺のあった土地は整理され、水路に沿った曲がり道の代わりに、そこをショートカットする大道が通ったということなのだろう。
わたしはこの事実を知って、目の前の景色がぐらぐらするような感覚に陥った。自分はこれまで、太い幹線道路を中心に考えて、そこから枝分かれするものとして小路を歩いてきた。しかし、歴史は逆なのだ。むしろ、水路の流れや土地の起伏によって、くねくねと曲がる道がまず作られ、やがて街が発達するにつれ、交通の便を高めるべく、曲がり道をショートカットする大きな道路ができる。結果として、新しく広い幹線道路から歴史的に古い小路が分かれる。
このような成り立ちは、最初に碁盤の目に幹線道路を計画する条里制の頭からは出てこない。どうやらわたしは土地に対する新しい見方を身につけねばならないようだ。わたしはこの体験を次のような暗渠散歩の心得として頭に刻み込んだ。
「Y字路は、低くて暗い方をゆけ」
つまりこうだ。自然にできた川や水路は、しばしば蛇行を伴い、うねうねと曲がる。まずそのうねりに沿って人は土地を耕し、地割りをし、道を通す。しかし、やがて街が発達してくると、川は蓋をされて蛇行する暗渠となる。さらに、川のうねうねをショートカットしてまっすぐに走る幹線が開発される。その結果、新たな幹線と暗渠とはY字に交差する。暗渠の方はもともと川なので、幹線よりも低くなることが多い。また、幹線のほうが交通量が多いので、相対的に暗渠の方が細く、そのぶん道に日光の射す量が少ないため、暗く見える。
この心得は、さっそくその先の道で役に立った。
神楽坂上を新しくできた(といっても明治の終わりだけれど)大久保通りに沿って、だらだらと下がっていくと、やがて筑土八幡宮前に出る。筑土八幡は50の石段で上る高台にある。言い換えれば、「神楽坂渓谷」の崖上がこの八幡様で、石段を降りると崖下の水路があったというわけだ。その筑土八幡前から東北東に幹線道路が走っているのだが、よく見ると左に小さな路地が口を開けている。Y字路だ。この路地の入口は、幹線道路から見てすとんと地面が下がっている。そしてもちろん、暗い。そして、以前、本田さんが送ってくれた地図と照らし合わせると、当たりだった。まさにこの部分で、本田さんの描いた線は謎のカーブを描いており、まさにこの路地の上を走っていたのである。この筑土八幡前から神田川(かつての江戸川)に抜ける「牛込小石川線」が、じつはつい最近できたものであることもあとから知った。つまり、このY字路でも、まず水路に沿った道ができ、そこが暗渠となり、さらにそこをショートカットする幹線道路があとから通り、Yの字の分岐ができあがったのだ。
二つのY字路をつぶさに観察し、歩いたおかげで、わたしの足裏は、以前に比べて格段に敏感になった。前方に少しでも勾配があると、足裏が微かに喜ぶのだ。さらにわたしは、通りを歩きながら、交差点にくるたびに左右を確認するようになった。車の往来を確かめるだけではない。自分の歩いている場所に対して、左右が高くなっているかどうかを見比べるようになったのだ。もし左と右が、ともにわずかに上り坂になっているとしたら、自分のいる場所は谷底であり、かつての水路だった可能性が高い。ちょうど丸い管に転がり落ちた球のように、左右の高さによって真ん中を探り当て、転がっていけばよい。
神楽坂上という最初のレッスンを通じて、これまで漠然としていたわたしの水心は、前方に対する暗さと低さの感覚に加えて、左右の勾配感覚というきわめて実践的な知を得たのだった。
(4/30/20)