「からだが忘れる」
わたしのからだは、エスカレーターの左右を忘れた。正確には、左右どちらに立つかを忘れた。
ある日、実家から東京に戻ろうとエスカレーターに進んだら、前に誰もいなかった。それで、はて、どちらに立とうかと思ったら、わからなくなってしまったのだ。以前なら、こういうことはいちいち考えるまでもなく、いつの間にか正解にたどりついていたし、いちいち箸を持つ前に「わたしは右利きだ」とか「右手」と唱えることがないように、ことばではなくからだで覚えていたのだ。だからこそ、からだが忘れると、もう、思い出す術がなくなっていた。
もうわたしは、関西のからだではなくなってしまったのだ。
そして、次に「どうでもええわ」という感慨が来た。右でも左でも、実にまったくどうでもよい。昨今、エスカレーターでは立ち止まって手すりを持ちましょうというアナウンスがあちこちで流れている。あいかわらず都市部では、先を急ぐ人達がエスカレーターを歩いており、実を言えばわたしもときどき歩いてしまうのだが、それがどちら側でもどうでもいい。わたしが先頭なのだから、わたしが立つ側の人が立ち止まればよい。是が非でも逆側に立ち止まりたい人はそうすればいいし、歩いて上り下りする人はその間を縫っていけばよい。
こういう感じは、もしかすると親の介護をしているせいもあるのだろうか。親からよけいな記憶が抜け、ハタからすれば(そして身内からしても)一貫性に欠け迷惑な行動があれこれ起こる。そういうあれこれと付き合っているうちに、もしかしたら、わたしの生活のすみずみまで覆っている一貫性や効率というのも、「どうでもええわ」の範疇に入るのかもしれない、と思うようになってきた。
わたしは朝昼晩の食事を準備するために、食器をひとところに入れる。母は夜に起き出して、お気に入りの皿や椀をこちらの知らぬ間に違う棚の奥底に入れ直す。のみならず、最近では家のさまざまな日用品や衣類、調度をあちこちに動かすようになった。仏壇の花がないと思ったら、床の間の飾りになっている。キッチンペーパーがないと思ってあちこち探すと、洗面所のティッシュペーパーの箱の下にある。なるほど、同じカテゴリーには違いない。なまじ理屈があるから腹が立つ。
毎日、何かをするたびに謎をかけられている。そのたびにこちらの作業効率はがくんと落ちるのだが、最近では、これは母からの手紙なのだと思うようになった。わたしが何かをあるところに配置し、それを母が配置し直し、わたしが探し出す。これはそういう往復書簡だ。探し当てることが手紙文なのだ。手紙に効率を求めても仕方がない。
それにしても、ときどき腹立たしい。腹立たしい手紙というのが、あるのだ。
(9/14/19)