ベアーズ初期にいたひょろひょろの男、奥成一志。シールドをズボンのベルト替わりにして、PAをしながら、見る見る杏仁豆腐のパックをぺろり平らげていた。謎だ。(監修:山本精一/取材・構成:石原基久)
――奥成くんがベアーズに関わるようになった経緯を教えてください。
奥成 山本(精一)くんと知り合うたのは、「鬼市場」(1987年夏,京都五条千本・大阪ガスのタンク跡地に期間限定で出現した「大駱駝艦」の公演を行うための野外舞台と映画『1000年刻みの日時計 牧野村物語』上映のための専用劇場を併設した摩訶不思議空間。いまは京都リサーチパークになっている)でボアダムスがライヴやった時(8月23日)、PAをしたのが最初。次、『なしくずしの共和国』(88年2月13日,京都こども文化会館)で想ひ出波止場いうか、山本くんのソロのPAをして、そのすぐ後、どん底ハウス(4月29日)でハレルヤ波止場を観に行って…そんなんしてるうち、喋るようになった。そのハレルヤ波止場の時に津山(篤)くん経由で「山本が大阪・難波でライヴハウスやる。いまPA探してるで」いう話を聞くんや。その頃、ベアーズは一旦閉めてたはずやねん。
――閉めて仕切り直ししてた時期というか。
奥成 で、初めてベアーズに行った。メインのスピーカーはスタンドの簡易なヤツで、モニターなんてステレオ(セット)のスピーカーやし、マイクもヴォーカル・マイクみたいなんしかあらへん。ギターアンプ鳴らしたらヴォーカルなんて何も聞こえへんようになる。それでは話にならへんから、しばらくして機材を自腹でドバッと買ってん。当時、機材高かったからな。いまにして思えば16chの何もでけへんアナログ・ミキサーでも120~130万円くらいしてたから。
――いきなり自腹? 太っ腹やね。
奥成 のちのち月々分割で返してもろてんけど。前回、津山くんも言うてたけど、とにかくあの頃は高校生のレンタルがどんどん入ってたから、それでけっこう儲かっててん。ブルーハーツなんてオリジナル聴いたことなかったけど、曲憶えてしもたもん。高校生には音なんて関係ないし格安で貸してたからね。土日は昼の部、夜の部って感じで回して…週5~6本レンタルやってた記憶がある。平日のブッキングなんて客入らへんから。88年夏前までは山本くんがブッキングしてたいうても、まだ高校生スタッフがやってた頃の体制やったと思う。で、再開していまのベアーズに近い感じになる。でも、まだまだ出てるバンドは山本くんの知り合いばっかり。スケジュール空いてたら、最悪自分らで埋める感じ。想い出なんて毎月やってた。
――元々ベアーズは雀荘だったんでしょ。
奥成 そうそう。ベアーズをオープンさせる時、防音やら何やらで改装に相当かかったと聞いたけどな。それを1年も経たんうちにほっぽり出されたらオーナー(民野政道)も堪ったもんやないわ。それで山本くんが「やって欲しい」って頼まれたらしい。初期に撮ったビデオ見たら、床も壁もキレイやで。
――奥成くんはベアーズに住んでたんでしょ。
奥成 88年の夏から11月まで。京都から大阪に出てきたけど、お金もないしベアーズが続くかどうかもわからへんやん。しばらくして、やっとお金が回り始めたから西成の職安(あいりん労働公共職業安定所)横に部屋を借りることができた。ブッキングを手伝ってたこともあるよ。山本くんは当時まだサラリーマンやし、昼間は会社行っててベアーズに現れるのは夜8時ごろ。オレは、夕方4時になったらバンドが来るから、リハーサルやって本番。本番済んで片付け終わったら10時。それから夜中2時くらいまでずっとブッキングの電話。当時、ケータイもメールもあらへんから、電話かけてもなかなかつかまらへんねん。つかまるのはどうしてもその時間帯。2時過ぎたら、めし行って、戻ったら3時。それからうだうだして朝5時に寝る。で、起きたら、すぐ夕方。すぐその日のバンドが入ってきて、またリハ。その繰り返しやった。ベアーズって地下やん。1日1回も太陽見ぃへん日が続くと滅入るよ。モギリやって、PA、照明やって…オレ以外誰もおらへんいう日もざらやった。あまりにあんまりなんで、「誰か、頼んで」ってお願いして、来てくれることになったんが石隈(学)。ベアーズもバイト代くらいは出せるようになってたから。平日の昼間「ドラム教室」やってた岡野(太)にモギリに入ってもろたりもした。89年に入ったら切石(智子)もスタッフになったし。
――山本さんがあちこちで喋ったり書いたりしてるけど、90年10月の「西成暴動」、山本さんと一緒に毎日行ってたのが奥成くんやよね。
奥成 オレが自販機を壊して中のもん盗ったとかいう話になってるけど、そんなんしてないで。盛り過ぎや。確かにライヴ終わったら、即行、ベアーズから歩いて毎日行ってたけど。(阪堺線の)南霞町の駅に火ィつける瞬間とか見てたけど。機動隊と労働者の睨み合いをふたりで見てただけなんやけどな。西成の暴動もベアーズの中も同じようなレベルやっただけの話で。
――当時、ベアーズでもケンカとかトラブルはよくあったやろからね。
奥成 ま、あんまり言われへんけどね(笑)。
――ところで、奥成くんは想い出波止場のローディもやってたよね。
奥成 ボアダムスも。ローディ兼運転手。その頃、ほかのライヴハウス行ったら、想い出もボアもほぼカス扱いやねんな。いまでこそ認められてるけど。どこもヘンなことやってるヤツに容赦なかったから。それか、全く相手にされへんかの、どっちか。
――奥成くんがベアーズを空けてる時、PAを頼んでたのが保海(良枝)さんになるんやね。
奥成 エッグプラントは89年暮れに閉まるやん。それから保海さんは1年ほど、OLしてたらしいけど、嫌んなってたところを引っ張ってきてもろた。結局、保海さんにベアーズを押し付けてしもたんやけど。
――奥成くんは「ビート・オブ・アベニュー」(ライヴハウス,京都・円町,1991年2月-92年2月)にも関わるんやね。
奥成 あれは前さん(前川典也, 前号参照)がやってたのを手伝ってただけ。機材の相談とかしてるうちにブッキングまでやることになってしまったけど、人に頼んでばっかりやったわ。
――その後、奥成くんは心斎橋クラブクアトロ(92-96年)や新世界ブリッジ(2001-07年)のPAを任されたりするわけやけど、そういうハコとベアーズはどう違った?
奥成 ま、単純に広さが全然違う(ベアーズの床面積はステージと客席合わせてわずか40坪)。そういう違いも含めてベアーズの面白さは全く別。あの大きさいうか、狭さやから好きにやれるみたいなんがあると思う。極端に言うたらひとりでも客おったら何とかなるみたいな部分もあったから。クアトロとブリッジでも全然違うやん。どちらかと言えば、ブリッジはベアーズに近いとこもあったかな。とにかくベアーズは他に例をみないヘンな人たちが集まって運営してたところが決定的な違い。稀有の価値というか、ヘンな人はヘンな人を呼ぶみたいなとこもあって日本中からヘンな人が集まってきた。
*メモ
- 切石智子:アコーディオン奏者として、吉村うみぼうず、GRIFFINほかで活躍した。切り絵、イラスト、小説、エッセイ、音楽評論、ダンスなどと幅広い分野で表現活動を行った。2003年逝去。
*注
- 1988-1991年のベアーズ・スケジュール(参考資料:PUGAJA88年1月号-9月号、エルマガジン88年1月号-91年12月号ほか)作成:石原基久