地下鉄の駅のホームで、一枚のポスターに目がとまりました。
「起こし絵」の展覧会のポスターです。
ちょうど目の高さに、起こし絵を組み立てた写真があって、細かいところまでよく見えます。
起こし絵というと、おもちゃ絵、立て版古を思いますが、この起こし絵はおもちゃ絵ではありません。「茶室起こし絵図」で、茶室が精巧に写されたものです。
台紙に間取りが描かれいて、壁や建具が描かれた別の紙パーツの下を糊づけして、壁面を立てて立体にします。壁面の端には「ほぞ」という、昔の着せ替え紙人形の肩に付いていたような小さなでっぱり凸があり、もう片方の壁面の穴凹に差し込んで組み立てます。絵図には細い細い筆で、細部に至るまで詳しく、形や寸法、材料などが書き込まれています。
「茶室起こし絵」の写真は、本で見たことがありましたが、実物を見たことはありません。ポスターは目の高さにあって、とてもわかりやすい、でも、茶室の奥の方が見えません。展覧会は沿線にある「大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)」で開かれているので、さっそく行ってきました。
展示品の「茶室起こし絵図」は、同館に寄託されている「大工頭中井家関係資料」のもので、すべて重要文化財です。
中井家というのは、江戸時代を通じて、京都大工頭を世襲した家。上方(五畿内と近江の6カ国)における公儀作事を一手に引き受け、京都御所をはじめ、大阪城、二条城といった幕府関係の城郭、また知恩院、四天王寺、住吉大社といった寺社などの建築工事を家職としていたスーパーゼネコンの家です。
幕府が崩壊した後、建物の造営に関する書状や、建築指図、配下の大工組織、歴代の事績を示す文書などの資料は、中井家が独力で保存してきたそうですが、土蔵が老朽化し破損が進んだことから、2006年、十三代当主から大阪市立住まいのミュージアムに寄託され、保管されるようになりました。そして中井家と共に同館が膨大な資料の全容解明に取り組み、2011年には、5,195点が重要文化財に指定されたのです。
そのうち「茶室起こし絵図」は45点あり、2021年3月時点で17点の保存修理が完成したようです。
「茶室起こし絵図」は、建築模型みたいなものかな?と思っていましたが、そうではありませんでした。
もうすでに建っている茶室を実測して作成したものです。だいたい実物の1/20サイズだそうです。なんのために作るのか、それは写しを建てるため。
将軍とかお公家さんとかから注文があって、たとえば千利休が建てたという妙喜庵の茶室「待庵」がいいなあ、あれを建てたい、図面がほしいとなると、棟梁が実測に出向いて、起こし絵図を作って納品する、注文製作だったようです。
平面図ではなくて立体にするのは、茶室の構造が複雑で、どんな風に部材がつなげてあるのかが、立体だとわかりやすい。
作るときには、二組作って、正本を納め、控えに副本をとっておき、また注文が入れば、副本から写しを作るということもあったようで、絵図には製作時の基準点として打ったと思われる針穴のほか、複製を作る際に打ったと思われる針穴もあるそうです。
建築もわかっていないといけないし、お茶にも通じていないとできないこの仕事を始めたのは、中井家三代目の中井正知。初代、二代とも茶会を通してそうそうたる茶人や幕府の要人らとネットワークを結び、地位を築いてきました。三代目も若い頃から茶人と交流があり、茶室建築にも茶の湯にも精通していたといいます。
その三代目がなぜ、この「茶室起こし絵図」製作の仕事を始めたのか。
それは、時代が変わったから。正知の時代から、新築が減って修理が中心となり、中井家は一時、屋敷を手放すほど困窮したようです(元禄初年)。しかし、幕府が大工の監督官庁として中井役所を発足させたので、やがて中井家は旗本として生活は安定(元禄十一年)。現在、中井家に伝来する最古の起こし絵図は、元禄十六年(1703)のものだそうです。
そこから代々にわたってこの仕事を受注しています。生活が安定したとはいえ、新築が増えるわけでもなく、主な仕事が維持管理となったことで、新たな家業として茶室起こし絵図の製作を始めたというわけです。(参考:谷直樹「大工頭 中井家と「茶室起こし絵図」」,『茶室起こし絵図(特別展図録)』大阪市住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)2021)
そして、起こし絵図といえば、なぜか茶室です。数寄屋造りの住宅もあるけれど、茶室が断然多いそうです。城郭の起こし絵図もあるようですが、それはプレゼンに使用されたものだとか。起こし絵図の用途が、写しを作るためとあらば、城を写すことは考えられないし、生活の空間は家それぞれで勝手が違うだろうから、写しよりオリジナルがよいでしょう。
茶室に起こし絵図が多いのは、「茶室の設計がむずかしいから」というのは、起こし絵図についての著書もある建築史家の故・西和夫博士。「優れた茶人と優れた建築家、このふたつの才能を備えていなければならない。これはむずかしい。また、茶室は、狭いがゆえに濃密な空間構成が要求され、細部まで神経を配った設計が必要となる。ますます設計は大変だ」。
設計が大変むずかしく、先人たちの優れた作品を真似するのが近道、また「優れた茶人への追慕の念、あるいは優れた茶室を自分も使いたいという願望、こうした種々の思いを満足させるために」、写しが盛んに行われたのです。だから、茶室には起こし絵図が必要だったのです。(参考:西和夫「起し絵図に見る茶室の特色」, 『淡交別冊・愛蔵版』No.6「茶室」1993)
西博士はまた、こうもいっています。
「そもそも起し絵図が有効なのは、実は、日本建築が柱と梁を基本に構成され、紙でそれを表現してもさほど違和感がないからなのである。これは石やレンガを積んで作るヨーロッパなどの建築と比較すると理解しやすい。石やレンガを積みあげて作る建築は、―略―石や土で大きなかたまりを作り、内部をくりぬいて内部空間を作り、壁に穴をあけて窓や入口にするのである。このような建築は、紙で表現するのはむずかしく、粘土や石膏などが向いている。当然、起し絵図は作れない」と。
建物として、茶室の小ささも、パタパタと折りたたんで作るのに都合がよかったかもしれません。
さらに西博士は、和紙に言及します。
「茶室の起し絵図は、まさに日本建築の神髄を表現していると言ってよかろう」として、「忘れてはならないのは、和紙という、腰が強く、何度も折り返しても大丈夫だという絶妙の素材があったことである」と和紙の偉大なる功績をたたえておられます。
展覧会図録にある保存修理の解説には、「(壁などの)パーツ類の料紙の多くは厚紙もしくは楮(こうぞ)紙を貼り合わせた強靱な紙が用いられている」とありました。
実際、展覧会に行って、わたしは何を見にきたのか?と思いました。紙を見にきたといっても過言ではないかもしれません。ずらっと起こし絵図が組み上げられて並んでいて、うれしくて近づくのですが、背が低いわたしは、茶室の奥の方がよく見えません。上から覗けるガラスケースに入っている絵図は、俯瞰でよく見えるのですが。しかも、絵図に書かれた字が想像以上に細かくて、遠近両用レンズの上の方でも下の方でも見づらい。見ていて、行ったことのある茶室や庭は、起こし絵図を見て、実際のスケールが想像できるのですが、行ったことのない茶室は、起こし絵図だけでは、わたしにはその空間を読み取る能力がありませんでした。
なので、紙を見にきたのか、と思ったわけですが、その紙が素晴らしい。一個一個の存在感たるや。紙の質感を目で味わうことができました。今回、保存修理がなされたので、組み立てが可能になったらしく、修理のそして組み立てのご苦労もしのばれます。
よく見えなかったり、見てもよくわからなかったりする、茶室の起こし絵図ですが、来歴が明らかになった書状などと共に展示されているので、興味深く見ていくことができました。
そして、これは、もっと大きな声で自慢してもよいのでは、と思ったのは、この中井家の「茶室起こし絵図」(中井家本)の価値の高さです。
中井家本が世に出たのが、1977~78年の調査でした。それまでは、松平家旧蔵の東京国立博物館にある東博本で、これは1963~67年に精密な複製本が刊行されて、起こし絵図の存在が広く世に知られるところとなったようです。
今回、あらためて精査されたところ、「中井家本は依頼者に納めた正本の控えで、東博本は中井家の控えを元にして製作された写しであるとの結論に至った」と図録にありました。
実地調査の記録である野帳が残っていて、展示もされていました。「現存する他の茶室起こし絵図と比べると来歴が明確で、その資料的価値はきわめて高い」とのこと。
すごいです、中井家!天六の住まいのミュージアムもよくがんばった!そして保存修理のチームも!
展覧会が終わったら、また折り畳まれてしまいますので、ぜひ、起き上がっているうちに。
by 塚村真美
大工頭中井家伝来 茶室起こし絵図展
2021年11月19日(金)〜2022年1月16日(日)
大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)企画展示室
詳しくは公式サイトへ