奈良の東大寺の裏山、といえば若草山。頂上から北側に少し下って西に分け入っていくと石仏「彌陀三尊像」があります。春日カナンボ石という緑色を帯びた硬い一石に、光背も三尊も浮き彫りされています。中尊は来迎相の阿弥陀仏、向かって右が弥勒仏、左が十一面観音。鎌倉末期か室町初期の作ではないかといわれます。(参考:西村貞著『奈良の石仏』p.151-153, 昭和18年, 全国書房)
春のお彼岸にお参りしてから半年、ようやく秋の彼岸になってお参りすることが叶いました。春より前は昨年六月。そのときの写真がこちらです。
そして、今年の春のお彼岸がこちら。
慌てふためきました。倒木が石仏をまともに直撃していたのです。木をどかせようにも重くてびくともしません。しかし、光背がしっかりと木を受け止めていて、その下の仏さまは、表情ひとつ変えることなく、って、あたりまえですが、賢いお顔でほほえんでいらっしゃいました。
すわ、石仏を救わねば!と、県の奈良公園の管理事務所に電話をしましたが、奈良公園の管轄外と、けんもほろろ。江戸時代の終わりまで東大寺の境内地だったので、東大寺に電話してみたら、いまは民有地とのことで、どなたの所有かはちょっと……とのこと。しかし、さすがに東大寺のお坊さま、ああ、あのカナンボ石の、とすぐにわかってくださいました。
三尊石仏は、平安前期、寛平四年(892年)に始まったといわれる東大寺法華堂の「千日不断花」という行法の行場の一つだった(参考:筒井英俊編『東大寺現存遺物銘記及び文様 寧楽十四』昭和6年, 寧楽発行所)ようですが、おそらく明治時代からは行われていないと思われます。
この行はなかなか素敵で、山に点在する行場を経巡って、春日山中、花山より花を切り出してきて、法華堂(三月堂)の本尊である不空羂索観音さまにお供えするのです。花といってもこの場合は仏さまにお供えする緑の葉っぱ。樒(しきみ)です。しかし行自体は、素敵なんてもんじゃなく、かなりハードなものだったようです。
『東大寺現存遺物銘記及び文様』には嘉永四年(1851)の日記が引かれていて、そのころは四十五日間だったけれども、もとは九十日間の行だったとか。朝山、夕山、中山のほか、丑の時の登山もあって、この夜中の丑時の行法が最も重要で、初七日、二七日、三七日といった節々に行われたようです。それにはまず法華堂で、阿弥陀経や心経、陀羅尼や悔過などを勤行したあと、ただちに草履脚絆に身を固め、二月堂の北から天地院弁財天、地蔵、蔵王権現、八幡宮、信貴毘沙門天、阿弥陀地蔵(ここでいう三尊石仏と思われる)などで伏し拝み、最後に阿伽井社(三尊石仏にわりと近い)で水を汲んで、法華堂に帰ってきます。
山に登る際には、阿伽桶を二つ金剛杖に結んでいって、そこに水を汲んできたとか。上記の本には「ともかく此の行法には丑の時登山と、阿伽水と、供花とが重要なる行事である」と書かれています。またこんな計算も。九十日間で花は「毎日二荷として百八十荷使用したわけである」と。二束の花といっても、現在の一束300~500円ほどのお墓用仏花の大きさではなく、お堂にお供えする花なので大きいのです。一本は大木で六本が枝、それを1セットにして2セットが一日分。それを九十日分切り出してお供えするのです。
青々としたみずみずしい緑葉がお堂に荘厳されている様を想うと、鼻が通るようなすっきりした気分になります。しかしこれはまとまるとたいへん嵩張ります。お供えした花はお堂の北側に捨てられました。その場所は「花塚」と呼ばれ、八角形に石が組まれているので、すぐわかります。
東大寺のお坊さんがお参りすることもなくなり、いまは土地の所有者の人かご縁のある方が石の囲いで守ってくださっています。おそらくその方々でしょうか、五月か遅くともお盆のころまでに倒木をチェーンソーで切って、どけてくださったのでしょう。これまた、たいへんな労力です。
それにしても、カナンボ石は硬い。「石は春日のカナンボ石」と清少納言が言ったかどうだか、笠置山の磨崖仏もカナンボ石だったら、焼け落ちることもなかっただろうと、手を合わす、お彼岸の中日でした。
by 塚村真美
西村貞著『奈良の石仏』は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068854/1
道案内:徒歩なら春日山遊歩道(2.3キロ/約40分)で上がって、若草山頂上手前の「鎌研交番」で道を聞いてください。車なら新若草山ドライブウェイ(530円)で頂上駐車場方面へ、「鎌研交番」で道を聞いてください。ドライブウェイ脇の「三体地蔵」と書かれた柱から、山中に分け入ること10分程度(迷ったらそれ以上)。必ず二人以上で行くこと。夏でも長袖、手袋、帽子、ハイキングシューズは必須。湿った日にはヒルが降ったり這い上がったりするので要注意。