きょうのツユクサ:9月15日(火)晴れ

ツユクサは、梅雨の頃に咲くからツユクサというのか、と思っていたら、朝露のように儚(はかな)いので露草なのだそうです。俳句では秋の季語です。

朝に咲いて、昼すぎにはしぼんでいて、夕暮れには消えています。朝見ると、青と黄色の小さな花が点々と咲いてかわいいのですが、日が落ちるころには緑の葉と茎だけしか見えず、翌朝また点々と咲きます。次の日に咲くのはまた別の花です。

露は、「無常」の象徴。いのちの儚さの比喩に用いられます。真珠や水晶などの玉にもたとえられますが、涙の比喩としてもつかわれます。また、つゆほどもない、などと否定形を伴って、ほんのちっぽけなことを表します。

「露の世は露の世ながらさりながら」は小林一茶の句。蓮如上人の『御文章』白骨章にある「おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしと言えり」というのを聞き慣れていたであろう一茶さん。幼い子を亡くし、老少不定であること、無常の世であることはわかっている、わかっちゃいるけど、だけど、と「さりながら」と句を止めました。

「露のいのち」という言葉は、「都由能伊乃知」として万葉集にも詠まれています。ツユクサは鴨頭草とか月草(いずれもツキクサ)の名前で詠まれていて、ツユクサの青の染料の色が落ちやすいことから移ろいやすい心として、そして、朝咲いて夕べに消える、儚いいのちや、儚い恋を詠んだりしています。

お経の中に「露」はよく著されています。

私の好きなお経(偈)に「十二礼」というのがあります。「空」の思想を基づけた龍樹菩薩がうたわれた偈で、こうこうこういうワケで、わたしは弥陀如来を頂礼するのです、と仏さまを十二回讃えます。その九つめで無常のことを「水月電影露」とたとえていらっしゃいます。水面の月も稲光も露もすぐに消えてしまうものです。

「十二礼」が好きになったのは、『栄花物語』の「たまのうてな」に、この「十二礼」が出てくるからです。登場人物の四、五人の尼僧たちがおとなえするのですが、この人たちは阿弥陀堂を辞したあと、そのお堂と勤行のすばらしさに、家に帰らずひとりの尼の所に泊まって、食べたり臥したりしながら、うれしくぺちゃくちゃと語り合うのです。「十二礼」をあげていると、そんな尼さんたちとつながっているようで、うれしく思えてきます。

露の如しというのは、金剛経や涅槃経にも出てくるようですが、きっとほかにもいろんなお経に出ているのでしょう。

お彼岸が近くなり、ちょっと涼しくなってきたと思ったら、ツユクサがまたチラホラとよく咲いています。道ばたに咲くいわゆる雑草ですが、グラウンドカバーになるかと地面に突っ込んでおいたら、殖えました。花は儚いけれど、葉っぱと茎は丈夫で、茎がぐんぐん伸びて広がって、はびこりすぎたので、お盆前にずいぶん引っこ抜きました。ちっとも儚くなんてない、雑草と呼ぶにふさわしい元気な植物です。冬には枯れますが、春にはまた生えてきます。

by 塚村真美