お盆は、なぜ「盆」っていう字を書くのか?

と聞かれました。

それは、仏教行事としては、まさにお盆(用具とか容器の)に関係しているからです。

その名も「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経があって、そのお経をバックボーンとしてお寺では「盂蘭盆会」という法要が営まれます。お経には、籠もりの修行が終わる7月15日(古代インド暦)に、お盆に飲食物をのせて僧たちに施しなさい、と書かれています。そうすると、現世や過去世の父母を、「餓鬼道」という死後の苦しみの世界から救うことができますよ、と説かれています。

「盂蘭盆経」は短いお経なので、国立国会図書館デジタルコレクション「仏説盂蘭盆経」などで読み下し文が読めたりします。

お経の主人公は目連尊者(=摩訶目犍連)です。お釈迦さまの十大弟子の一人で神通第一と呼ばれた方。この方が神通力でもって、亡き母が餓鬼道におちているのを目にします。大泣きした目連さんはお釈迦さまにこのことを話します。お釈迦さまは、お母さんを救うには修行僧たちにお供えをしなさいとおっしゃり、修行僧たちにはまず施主家のために祈って、仏塔に御前に置いてから、いただきなさいとおっしゃったと書いてあります。この親孝行の話が、なんといいますか、日本人のお盆の感覚に、まあなじまない。

日本のお盆には、大文字の送り火に代表されるように、祖先の霊をお迎えしたり送ったりする、仏教ではない古来の信仰が、風土にしみついています。ほかにも「地獄の釜の蓋があく日」という認識の方もいらっしゃるでしょう。いずれもあの世とこの世を行き来する感覚です。しかし、それ以上に、お盆は単なる夏休みと捉えている人の方が多いのかもしれませんが。

さて、この「盂蘭盆経」は、ずっと長い間、中国で創作された「偽経」だとされてきました。ずっというのは4世紀からです。そして、ずっと長い間、盂蘭盆というのは、サンスクリット語の「ウランバナ」(逆さ吊り)の音写であるというのが定説でした。ずっとというのは7世紀からです。

わたしも今年のお盆前まで、「盂蘭盆経」は偽経で、盂蘭盆はウランバナの音写とばかり思っていました。「お盆は、なぜ『盆』っていう字を書くのか?」と問われて、ちょっと検索してみたら、意外なことに、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の盂蘭盆会と、盂蘭盆経のところに、わかりやすく、知らなかったことがいろいろ載っていました。

2013年、仏教学者の辛嶋静志は盂蘭盆を「ご飯をのせた盆」であるとする説を発表した。それによると、盂蘭盆経のうちに「鉢和羅飯(プラヴァーラ〈ナー〉飯)」という語があり、これが前述の旧暦7月15日・安居(雨安居)を出る日に僧侶たちが自恣(プラヴァーラナー 梵: pravāraā)を行うことに関連付けられる。古代インドには自恣の日に在家信者が僧侶へ布施をする行事があったとし、それと盂蘭盆経が説く行為とが同じものであるとしている。また、盂蘭盆の「盂蘭」はご飯を意味する「オーダナ (梵; 巴: odana, 特に自恣の日に僧侶へ施されるご飯を強調する)」の口語形「オーラナ(olana)」を音写したものであり、それをのせた「盆(容器の名)」が「盂蘭盆」であると説明する。

その出典のひとつで、わかりやすいのが、こちらです(辛嶋静志 、2013年7月25日 “「盂蘭盆」の本当の意味 – 「ご飯をのせた盆」と推定”『中外日報』中外日報社)

わー、そうなの、そうなの。そうだったの!

また、関連文献にあった、こちら(赤松孝章「盂蘭盆」考 ― A Study of “Yu-lan-pen” (PDF) 『高松大学紀要』 33号、1–11頁、2000年2月25日)でも、ウランバナの音写ではなくて、盆器であるという展開になっています。それによると、7世紀には、逆さ吊り説ではなく、盆器説があったことも紹介されていました。さらに「盆」だけじゃなく、「盂」も、お椀という意味があると。

わー、知らなかった、知らなかった!

お盆は、まさにお盆(器)にご飯を盛って供養する日のようです。うちではお盆には慣習としてそうめんをお供えしていますが……。しかし、どうも「『盂蘭盆経』は偽経で、盂蘭盆はウランバナの音写」という定説は、すっかり覆ったというわけではないようです。

これは、仏教界としては、アップデートした方がいいんじゃないかな?と思いますが、辛嶋先生の説が正解かどうか、サンスクリット語も、まして古代インドの口語も、わたしには全然わからないので、判断のしようもありません。

が、しかし、わたしがわかるのは、「逆さ吊り経」より「ご飯をのせた盆経」のほうが、はるかに印象がよいということ。好感度がアップしそうです。さらに、わたしとしては、こんな時代でありますから、お盆にどーんとご飯を盛るではなく、できれば、一人分のごはんを盛った鉢をお盆にのせてお供えするのがよいのではないか、と思いました。

by 塚村真美