浮かびのひょうたん「堤根神社」(2)
by 丸黄うりほ
昨日の続きです。史跡「伝 茨田堤(まんだのつつみ)」の碑は、本殿の東側に建っていました。その奥には、大変立派な楠の木が聳えていました(写真①②)。
また、境内にはただいま建設中の新しい碑もあり(写真③)、「茨田堤」についての説明や地図なども掲示されていました(写真④⑤⑥)。この辺りに「茨田堤」があったとされているのでしょうか? そもそも「茨田堤」とは?ひょうたんとの関係は?
こちらの「堤根神社」は、もともと「茨田堤」の鎮守として創建された門真市で最も古い神社といわれ、平安時代中期に編纂された『延喜式式神名帳』にもその名が列せられているそうです。縁起は、なんと今から約1600年前に遡ると伝えられています。
神社でいただいたパンフレット(写真⑦)にも掲載されている『日本書紀』の記述によると、仁徳天皇の時代に、この神社の北を流れる淀川の分流(現在の古川)がよく氾濫を起こし、大規模な治水工事が行われたそうです。ところが工事は困難をきわめ、どうしても決壊してしまう場所が二カ所ありました。そこで、天皇は神託を受けて武蔵国の強頸(こわくび)と、河内国の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人を川の神に捧げることにしたというのです。
強頸(こわくび)は堤防に埋められ、人柱となりました。しかし、衫子は知恵をしぼり、ひょうたんに願いを込めてその返事を聞くことを提案したのだそうです。
いわく、「川の神が本当に私の命を欲しているなら、このひょうたんは沈むでしょう。それなら私は身を捧げましょう。しかし、ひょうたんが沈まずに浮かび上がってくるようなら、偽りの神に身を捧げることはいたしません」。
そう言って川に投げ入れたひょうたんは、沈みかけたが結局浮いて流れていったといいます。このようにして衫子は難を逃れ、工事を続行し、堤防は無事に完成して「茨田堤」と呼ばれるようになったそうです。
「茨田堤」の完成によって、この辺り一帯は米どころとなって栄えたといいます。「堤根神社」の主祭神である彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)は、神武天皇の第一皇子で茨田氏の祖先とされています。茨田氏が後世の人々にもたらした恩恵とその功績は非常に大きなものだったことがわかります。
この故事を、ひょうたんを中心に読み解いてみましょう。まず、『日本書紀』が書かれた頃には、またその記述に従うなら仁徳天皇の時代には、ひょうたんが日本にあったことがわかります(ひょうたんはアフリカ原産の植物です)。そして、ひょうたんは水入れや物入れとしても使われていたかもしれませんが、占いの道具であったことも想像できます。
しかし、中身のからっぽなひょうたんが水に浮くということは当時の人もおそらく知っていたでしょう。茨田連衫子の知恵を讃える逸話は、見事な治水工事を行うテクノロジーと偉業を讃える人々の心から導かれたものなのかもしれません。
(967日目∞4月27日)