京都「北白川石仏」のひょうたんマーク
by 丸黄うりほ
京都市左京区の北白川周辺には、「北白川石仏」と呼ばれる石仏群があります。たとえば、今出川通から志賀越道に入る路傍には、鎌倉時代中期につくられたといわれる子安観世音が東向きに安置されています。この道は、かつて洛中から比叡山、近江へと至る街道だったそうです(写真①)。
今出川通の南側、吉田神社の参道の手前には、北白川西町道標が立っています。横に普通にゴミ箱がおいてあったりして、何の変哲もない石柱のように見えますが、じつはこれも江戸時代に建てられた京都市指定登録文化財らしいです。東西南北の地名が刻まれ、写真②でも「南 三条大橋 知恩院 祇園 清水 本願寺」といった文字が読めますよね。
その道標の横には、やはり鎌倉時代中期の作とみられている阿弥陀如来坐像2体が安置されています。比叡山へ向かう旅人や、このあたりの庶民によって信仰されてきたものなのでしょう。とくに、右の阿弥陀様の素朴で優しい表情がすばらしいですよね!(写真③④)
さて。私がきょう、ここへやってきたのは、もちろんひょうたん探しのため。2体の阿弥陀様の前に細長い花生けと、バケツ型の花生けが、それぞれ一つずつ置かれているのが見えるでしょうか。そのうちの、右の阿弥陀様の前にあるバケツ型のほうをクローズアップしてみましょう……。
……写真⑤をよーくご覧ください!
花生けの中央あたりに、ひょうたん型が刻まれているのが見えるでしょうか?
もう少し寄ってみましょうね……。(写真⑥)
ね、見えますよね?ひょうたんの蔓の部分が十字になっているのもわかるでしょうか。この花生けの正面には「上坂」という文字も読み取れると思います。じつはこれ、幕末から明治にかけてこのあたりに居を構えていた侠客・会津小鉄こと上坂仙吉が寄進したものなのだそうです。その会津小鉄の代紋が、なんと「大瓢箪」であるらしいのです!
侠客とはいえ、会津小鉄は会津藩に出入りして要人の警備を担当していたそうで、後世には浪曲の題材などにもなっています。なぜ代紋が「大瓢箪」だったのかは調べてみてもよくわかりませんでした。
尊王攘夷派の代表的な公卿だった三条実美と「苦楽瓢」については先週(4月7日〜12日)の「ひょうたん日記」で書きましたが、それに対して敗れた旧幕府勢力の会津藩に関わっていた会津小鉄の「大瓢箪」。公卿も侠客も、敵も味方もひょうたん。なんだか面白いですね。
(963日目∞ 4月21日)
※次回964日目は奥田亮「でれろん暮らし」4月24日(月)にアップ。
965日目は丸黄うりほ「ひょうたん日記」、4月25日(火)にアップします。