大坂の花街「瓢箪町」の名残を探して(3)
by 丸黄うりほ
先週木曜・金曜の「ひょうたん日記」に続いて、きょうも旧「瓢箪町」界隈、現在の大阪市西区新町からお伝えします。
かつて「新町演舞場」があったとされるタワーマンションの南には、「新町南公園」があります。ここにも石碑がいくつか建っているようなので立ち寄ってみました。
まずは公園の北東に、なにわ筋を背にして黒い石碑が目に入りました。これには何の説明文もなく、なんだかよくわかりません。しかし、最初の文字が「角」であるのは読めますよね(写真①)。ネットで調べてみると、「角藤定憲改良演劇創始之地」と書かれていることがわかりました。
角藤定憲は、幕末に生まれ、明治時代に自由民権運動のアクティビストとなり、「壮士演劇」を始めた人物。「壮士演劇」は「改良演劇」とも呼ばれ、新派の祖ともいわれています。明治時代の新興演劇は、この街から始まったのです。花街であった「瓢箪町」は演劇の街でもあったということが、これではっきりしました!
さて、この公園にはもうひとつ石碑があるのですが、これが謎めいている。「ここに砂場ありき」と刻まれているのですが、公園に砂場があったことをいちいち石碑にするでしょうか?(写真②)
しかも、この石碑の裏側には「本邦麺類店発祥の地」と書かれていて、ますます謎。砂場と麺類がつながらない……(写真③)。
というわけで、これも調べてみました。すると、なんと時代は豊臣秀吉の大阪城築城の頃にまで遡ることがわかりました。秀吉が城を建てるにあたって、街のあちこちに資材置き場が作られ、このあたりには砂の蓄積場があったのだそうです。そのため工事の関係者が多く集まってきた。その人たちに麺類を提供する店が開業したことが天正12年(1584)に記された古文書に残っているのだそうです。
おもしろい!「新町遊廓」や「瓢箪町」ができる以前、この辺りにはまた別の街の顔があったのですね!
私は「新町南公園」を背にして、再びなにわ筋を渡り、今度は東へ向かいました。
じつは少し前から、複数の別の筋のみなさんに「新町のこのへんで、たくさんのひょうたんを見かけたんだけど……」という情報をいただいていたのです。
すると、右手に!それはあっけなく見つかりました。ガレージに入れた車の上に、30センチから35センチくらいある大きめのひょうたんが、いっぱいぶら下がっています(写真④)。
しかし、こちらは店舗でもないようです。趣味で集めてらっしゃるのでしょうか。眺めていたら誰か出てこられるかなと思いましたが、そういう気配もなかったので、ひとまず立ち去ることにしました。
そして……角を曲がったらすぐのところに!今度は千成ひょうたんがたくさん下がっているのを発見!(写真⑤)
さらに、お店の看板にもひょうたん型を発見!(写真⑥)
しかも今度はその前でご主人と思しき方が、ちょうど打ち水をされていたのです。
「これ、ひょうたんですね!私、ひょうたんが好きなんです。写真撮ってもいいですか?」と尋ねてみると、ご主人は快く「いいですよ」と答えてくださいました。「どうしてひょうたんなんですか?」と尋ねると、前のご主人がひょうたん好きだったからとおっしゃいました。「ここはもともと瓢箪町ですもんね」と私が言うと、「……そうですね」とも。
お店の名前は「富久鮓」さん。「ふく」といえば、「ふくべ」。ひょうたんの別名でもあります。
ご主人が千成ひょうたんをたくさんつないだ暖簾を店先に掛けられた頃には、あたりはそろそろと暮れかかってきました。(写真⑦⑧)
ご主人は「前のご主人がひょうたん好きだった」とおっしゃったけれど、店名からしてひょうたんです。私は、やはりこれも「瓢箪町」のかすかな名残ではないか……と思ったのでした。
(876日目∞ 11月22日)
※11月23日(水・祝)の「ひょうたん日記」はお休みです。次回877日目は11月24日(木)にアップします。