大坂の花街「瓢箪町」の名残を探して(2)
by 丸黄うりほ
昨日の続きです。私は「新町1南」交差点の横断歩道を渡り、旧「瓢箪町筋」を西へ歩き始めました。
「新町遊廓」の長はもともと木村又次郎という人で、戦国武将、木村重成の乳母の子であったそうです。木村重成が豊臣氏の家臣であったことから、木村又次郎もひょうたんの馬印を所持していたらしく、「新町遊廓」の紋章も三つ並んだひょうたんマークとなりました(図①)。それが、「瓢箪町」という町名の由来らしい。
「新町遊廓」のメインストリートであった「瓢箪町筋」には、あの有名な夕霧太夫がいた「扇屋」もあったのだとか。
夕霧太夫といえば、多くの歌舞伎や浄瑠璃作品のモデルになった人物ですが、「瓢箪町筋」から一本北にある「新町北公園」の北西角には、「新町九軒桜堤跡の碑」が建っています。この付近に、近松門左衛門の『夕霧阿波鳴門』にも登場する「吉田屋」と、桜堤の石垣があったようです(写真②)。
その隣には、江戸時代の俳人・加賀千代女が桜と遊女について詠んだ句碑も建っていました(写真③)。
さらに、公園の南西角の向かいには、歌舞伎役者の「初代中村鴈治郎生誕の地碑」が建っていました(写真④)。初代中村鴈治郎も「扇屋」で生まれたのだそうです。
また、公園の真ん中あたりには、大正から昭和にかけて活躍した詩人・百田宗治の「何もない庭」という詩を刻んだ碑もありました。この人も新町出身らしい(写真⑤)。
花街であった新町は、同時に演芸と演劇の街でもあり、有名人だらけだったんですね。「新町北公園」の北には現在「オリックス劇場(旧・厚生年金会館)」がありますが、私は「瓢箪町筋」にもどり、また西へ向かって歩きました。
なにわ筋を渡って一筋南の角に建つタワーマンションの前に到着。
たぶん、このあたりが「新町演舞場」の跡地のはずです。何か残っていないかなーと周りを歩いてみると、建物の陰にひっそりと「新町演舞場跡地」の石碑が建っているのが見つかりました(写真⑥)。やはりここだったようです!
「新町演舞場」は、大正11年に建てられた華麗な近代建築で、ここで新町の芸妓が総顔見世の「浪花踊」が演じられていたのだそうです。第二次世界大戦で新町がすっかり焼けてしまった後も、この建物だけは焼け残り、2014年に解体されるまで、出版取次会社の大阪屋の本社社屋として使われていました。
「新町演舞場跡地」の石碑には、建物の窓装飾の一部が使われていました(写真⑦)。どこかヨーロッパの国にありそうなデザイン。いま見てもじゅうぶんおしゃれですね!
もしも歴史が少しずれていて、ここでずっと演芸や演劇が行われていたとしたら。この街はいったいどんな風景だったのでしょう。
(874日目∞ 11月18日)
※次回875日目は奥田亮「でれろん暮らし」、11月21日(月)にアップ。
876日目は丸黄うりほ「ひょうたん日記」、11月22日(火)にアップします。