大坂の花街「瓢箪町」の名残を探して(1)
by 丸黄うりほ
大阪に「瓢箪町」と呼ばれる街があったことをご存知の方は、いまどのくらいいらっしゃるでしょうか?
「瓢箪町」があったのは、現在の大阪市西区新町界隈です。この辺りは現在はビルが建ち並ぶビジネス街ですが、戦前までは「新町遊廓」として栄えた花街でした。
江戸時代の新町といえば、京都の島原、江戸の吉原と並び称せられ、「京の女郎に江戸の張を持たせ、大坂の揚屋で、あはば、此上、何か有るべし」と、井原西鶴の『好色一代男』にも書かれたほど。美女が多い京都の女郎に、江戸の張りのある気性を持たせて、ゴージャスな大阪でいたすのが良いなぁ、という男の夢を書いた文章らしい。まあ、その中身云々はおいといて、それほど豪勢な建物があったのが新町だったということなのです。
ところが、新町界隈は第二次世界大戦で大空襲にあい、焼け野原になってしまいました。花街は解体され、その中心あたりにあった「瓢箪町」もすっかり姿を消しました。
私も名前だけは知っていたのですが、その名残はもう残っていないと思い込んでいました。ところが、東大阪市の瓢箪山稲荷神社に、新町ゆかりの人々が建てた鳥居や石碑がたくさんあること(「ひょうたん日記」547日目)。また、今も街にいくつかの遺構があることを知って、実際に歩いてみることにしたのです。
まず、私は地下鉄四つ橋線四ツ橋駅を降りて、四つ橋筋を北へ歩きました。ファミリーマートの角を東へ折れると、突き当たりは阪神高速の高架下になっています。高架下をまた北へ。すると、最初の目標物がありました!「新町橋碑」です(写真①)。
近寄ってみると、二代目長谷川貞信による「坂府新名所の内 新町鉄橋」の色あざやかな複製画のタイルがありました。かつて市内を流れていた西横堀川にかけられていた橋の上を大勢の人々が行き交い、川を行く船頭と、舟と舟着場にいる女郎(?)ふたりが描かれています(写真②)。
そして、その右には新町橋についての説明文もありました。それによると……。
「新町橋は寛文十二年(1672) 新町遊廓東側の通路として西横堀川に架けられていた 廓の中心の瓢箪町筋にあり 市内への唯一の通路のようになっていたことから「ひょうたん橋」とも呼ばれていた 遊廓は 西鶴・近松らの作品の舞台になり桜の名所でもあり 橋の東は 道頓堀の繁華街ともつながり この橋の上にまで夜店が並び賑わった(以下略)」
新町橋は、通称「ひょうたん橋」とも呼ばれていた!そして、この橋のあった場所からまっすぐ西へ伸びる道が、かつての「瓢箪町筋」であったらしい。
私は「新町橋碑」を背にし、西へと向かいました。東西の「瓢箪町筋」が、南北の四つ橋筋とまじわるのは現在の「新町1南」交差点にあたります。
(873日目∞ 11月17日)