ウリ科植物が好きだった?正岡子規『仰臥漫録』

by 丸黄うりほ 

正岡子規『仰臥漫録』(岩波文庫)の表紙にひょうたん!

先日、書店で何気なく岩波文庫のコーナーを見ていたら、素晴らしい表紙を発見!ひょうたん、ヘチマ、カボチャでしょうか?簡潔な線で描かれた味わいのある墨絵があしらわれています。

その本は、明治の俳人・正岡子規の『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(Kindle版はこちら)でした。

パラパラとめくると、中にもひょうたんの絵が!棚からぶらさがっている様子を描いたものもあります。オミナエシやアサガオの絵もあるけど、圧倒的にウリ科植物の絵が多い。これは大変なひょうたん物件だ!と気がついた私は、光の速さで本を買い求めました。

『仰臥漫録』は、明治34年9月2日の日付と、岩波文庫の表紙にもなっているウリ科植物の絵から始まります。その絵には、

「庭前の景は棚に取付てぶら下りたるもの
夕顔二、三本瓢二、三本糸瓜四、五本夕顔
とも瓢ともつかぬ巾着形の者四つ五つ」

という言葉が添えられ、正岡子規の目の前に、ひょうたんやヘチマがぶら下がった棚が見えることがわかります。続いて、

「夕顔の実をふくべとは昔かな」

「夕㒵も糸瓜も同じ棚子同士」

「夕顔の太り過ぎたり秋の風」

「病間に糸瓜の句など作りける」

など、ひょうたん、ユウガオ、ヘチマの句がずらりと並びます。

それ以外の記述というと、何を食べましたとか、食べ過ぎて吐きましたとか、薬を飲みました、屁が出ました、誰それが家に来ました、などというようなことばかりが書いてある。それが日記形式で毎日続くのです。翌日の9月3日の日付では、「瓢亭来る」という記述があり、瓢の字のつくこの人物は一体誰なのか?とも思いました。

読み進むうちにわかってきたのは、このとき正岡子規はすでに死の床にあったということでした。仰臥というのは仰向けのことですが、寝返りがうてない状態にまで衰弱していたようなのです。その病床のなかで、自宅の庭にあるひょうたんの棚をじっと見ていた。そして、その絵を描き、句を詠んだ。

ほとんどが食事の記録と、体調のことを書いてあるんですが、なかには痛みがひどくて今すぐ死んでしまいたいと思ったことなども書かれています。わずか34歳で亡くなった子規を看病しているのは母と妹。客観的に見ると、ものすごく悲惨な状況ですが、俳句がはさまれているせいか、いい意味での「軽み」が残されています。死を目前にした子規にとって、ひょうたんやユウガオ、ヘチマがぶらりのんびりと下がった棚、その面白い姿が、大変な慰めになったであろうことが読み取れるのです。

子規は、『仰臥漫録』を書き始めた明治34年の9月からちょうど1年たった、明治35年9月19日に息を引き取りました。辞世の句は、

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」

「痰一斗糸瓜の水も間にあわず」

最後まで、糸瓜(ヘチマ)の句を詠んでいたということで、子規の亡くなった9月19日が「糸瓜忌」と呼ばれていることも知りました。

おそらく、子規はウリ科植物が大好きだったのでしょう。もしも現代の人だったら、ヒョータニストだったかもしれない。いや、これは決して私の妄想ではないと思います。みなさんも、『仰臥漫録』を読んでみると納得していただけるはず。

阿部昭という人が解説を書いているんですが、子規の当時50代だった母親を「老母」と書いてあったり、離婚して実家に戻り、子規の看病をしていた妹に対する風当たりには「ちょっとひどいんじゃない?」と本を投げたくなるようなところもあるんですが、まあそんなことを言ってたら古典は読めません。

ウィキペディアで調べてみたら、「瓢亭」というのは五百木良三という人の俳号で、子規に俳句を教わっていた生徒だということもわかりました。この人はのちに出世して編集者、政治活動家になったようです。

(823日目∞ 9月2日)

『仰臥漫録』 (岩波文庫)2022年5月刊。直筆の素描画を天然色で掲載する改版/カラー版。

※次回824日目は奥田亮「でれろん暮らし」、9月5日(月)にアップ。

825日目は丸黄うりほ「ひょうたん日記」、9月6日(火)にアップします。