奈良・瓢箪山古墳を探しに(後編)
by 丸黄うりほ
登りかけた瓢箪山古墳から降りて、下に続く石の歩道を歩き出したころ、雨も上がってきました。
歩道はひょうたん型の古墳のボディラインに沿うように曲線を描いて続いています。1枚目の写真を見ていただくと、敷地のすぐそばまで民家が建っていて、佐紀盾列古墳群がいかにカジュアルに普通の町の中にあるのかがわかっていただけるかと思います。しかも、写真の奥に見える森はまた別の古墳、丸塚古墳と呼ばれるものなのです。それほどの古墳の密集地であって、昭和な表現をするならここは古墳銀座。
入口に立っていた奈良県教育委員会の説明文によると、もともと隣の丸塚古墳があったところの、ギリギリの敷地に後から古墳をつくったのは瓢箪山古墳のほうらしい。なぜそんなことをしたのかな?古墳を囲む石の歩道は、古墳の北から始まって、ぐるっと南に回っていくように続いていますが、丸塚古墳と重なる部分だけは途切れています。
古墳の大きなひょうたんの、上のふくらみ部分に当たるのが南側で、ここに埋葬施設があるらしい。下のふくらみ、北側はどうやら祭礼を行うのに使われたようです。写真2枚目を見ていただくと、ひょうたんのくびれ部分がわかるでしょうか。3枚目の写真は南から北を見たところ。4枚目の写真は南側の林で、少し高く盛り上がったようになっています。
古墳の東側には周濠も残されていました。この古墳からは円筒埴輪や碧玉製品などの副葬品も出土したらしく、墳丘の形態などから四世紀末から五世紀初頭に築造されたと推定されているそうです。また、ここに誰が埋葬されているのかはわからないようですが、佐紀盾列古墳群は天皇や皇后の伝承をもつ古墳が多く、この瓢箪山古墳も日本の古代史上貴重な古墳とされ、昭和46年に史跡として指定されたそうです。
そして、どうやらこの古墳は前方後円墳と呼ばれるものに分類されるらしい。前方後円墳というと、丸い部分と角ばった部分がつながった鍵のような形で、ちょっとひょうたんとは違うような気もするのですが。
うーむ。謎はふくらむばかり。
しかし、ともかくたどりつけてよかった。
自宅に戻ってから調べてみると、前方後円墳という言い方が普及したのは明治時代以降であり、江戸時代まではこのタイプの古墳を瓢箪山と呼んだり、茶臼山と呼んだりするほうが一般的だったらしいこともわかりました。
ということは、日本中にたくさんある前方後円墳を、それら全部が瓢箪山であるという解釈もできるわけで……。それだともう、瓢箪山が日本中あちこちにあることになる。
ちょっとのつもりで出かけたのに、またもや謎だらけな探訪記になってしまいました。ああ、ひょうたん世界の奥深さは果てしない……!!
(423日目∞ 12月25日)
※次回424日目は奥田亮「でれろん暮らし」、12月28日(月)にアップ。
425日目は丸黄うりほ「ひょうたん日記」、12月29日(火)にアップ。本年ラスト日記です。