お、これならもらって帰っても大丈夫ではないか。
by 奥田亮
小布施町では、毎年1月14日、15日に皇大神社で「安市」が開催されます。達磨を売る露店が所狭しと並び、14日の夜には1年間お世話になった達磨の「お焚き上げ」(どんど焼き)が行われます。去年の達磨は1年過ぎれば燃やされ、前年よりも少し大きな達磨を求めて帰ります。私はここ数年、商工会の役で、お焚き上げをする達磨を受け取って燃やす係として出労しております。今年もおびただしい数の達磨が持ち込まれ、どんどん積み上がっていきます。
毎年、大きな達磨が持ち込まれると「ああ、これをスピーカーにすれば、さぞやいい音がするだろうな、低音もよく響くよな」と考えてしまいます。そして、心の中では「どうせ燃やすんだからもらって帰ってもいいんじゃないの?」という声と「いや、1年間の祈りや思いなどの念が転写されているんだから、燃やして炭素に還元されることではじめて一巡りするんじゃないの?」という声がバトルを繰り返します。実際、持ってこられる方の中には、達磨に手を合わせて祈る方や、燃えゆくさまを感慨深げに眺める方もおられることを考えても、やはり燃やすというプロセスをすっ飛ばして別の用途に再利用するのはよくないですよね。でも、買うと高いんですよね。
そして今年はさらにもうひとつ、これは欲しいかも、という物が積み上げられていました。かなり太くて長い青竹です。おそらく何らかの神事に使われた後なのだと思われます。ああ、この竹があれば、最近私が注目しているマレーシア・サラワクの竹楽器が作れそうです(YouTubeへ) 。残念ながら楽器の現地名がわかりませんが、マダガスカルのヴァリハのルーツと言われているらしい。でも、ヴァリハは撥弦楽器ですが、この楽器は弦を撥で叩く打弦楽器で、まるでゴングのような金属的な倍音が響きます。
閑話休題。楽器の話になると長くなりそうなので、話をお焚き上げに戻します。とにかくその太い竹もかなり気を惹かれたのですが、やはり神事に使われたであろうことと、お焚き上げを待つ山に積まれていたのでダメだろうなと諦めました。
ところが今度は、現場で竹の廃材が次々出てきたのです。これは、15日に行われる火渡りの神事の結界に使う竹を切りそろえる作業で出てきたもの。そしてその廃材は、お焚き上げの山ではなく、ただ処分するために隅の方にまとめられていました。お、これならもらって帰っても大丈夫ではないか。と、勝手に判断して、よさそうな竹を選んでちょっと別の場所に移動。よし、これで帰りにそっと持って帰ればいいではないか。うしし。
お焚き上げと火渡りが無事終わり(むちゃくちゃ寒かったけど)、結界を解いてすべてを元の日常の状態にきれいに戻して解散となるのですが、最後に私がっ隅っこに隠していた竹を見つけた人が「あれ、これは?」と廃棄しようとしたところを、勇気を出して「あ、それはボクがもらって帰ります!」と奪還。なんとか無事太い竹を1本家に持ち帰ることができたのでした。うれしいような、情けないような、ははは、でれろん。
(1270日目∞ 1月20日)