「はり半」ご主人の「箪瓢(たんひょう)」墓に手をあわせてきました
by 丸黄うりほ
大阪市天王寺区の一心寺に行ってきました。一心寺は浄土宗宗祖・法然上人ゆかりの古刹です。とてもモダンでアーティスティクな仁王門や、有名な納骨堂の周囲には外国人観光客を含む参拝者が大勢訪れていて、とても混み合っていました。
私がここを訪れたのは、料亭「はり半」の創業者である播磨屋半兵衛(平山半兵衛)さんのお墓があるときいたからです。
「はり半」は明治12年創業。戦前はもうこれ以上はないと言われるほどの超高級料亭であったそうですが、第二次世界大戦で大阪心斎橋の店はすべて焼けてしまいました。西宮市の甲陽園にあった店は戦後も残されましたが、それも不況のあおりを受けて2005年に閉店しました。
現在、甲陽園に残されているのは、料亭の庭園を流れる川にかかっていたという橋の欄干だけ。その欄干には「はり半」の商標であった「箪瓢(たんひょう)」がくっきりと刻まれています。今年の春、実際に跡地へ行って見てきましたので、未読の方はぜひ「ひょうたん日記」952日目をお読みくださいね。
話をもどしましょう。そう、「箪瓢(たんひょう)」です。ひょうたんは通常、上のふくらみが小さくて下のふくらみが大きく、真ん中でくびれた形状をしているのですが、「はり半」主人の平山半兵衛さんが愛したのは、上のふくらみの方が大きい逆さまのひょうたんでした。
その形を「箪瓢(たんひょう)」と呼び、料亭の商標とし、心斎橋店の前にも橋をかけ、その欄干にも彫り込んであったそうです。さらには、ご自身の墓石までもその形で建てたということらしい。
奇妙な形をした、ずいぶん大きな墓であるということで目立っているであろう。お寺に行けばすぐに見つかるだろうと思っていたのですが、これが……なかなか見つかりません。一心寺には有名人の墓が多いとはきいていたのですが、本当に有名人だらけ。しかも変わった形の墓や大きな墓もいっぱいある。敷地もずいぶん広い。ギブアップしてお掃除をされていた方に聞いてみると、少し首を傾げながら「……北門のほうに、あったんじゃないかしらねぇ……」とおっしゃいました。
いったん外へ出て、北門のほうから入りますと、わりあいすぐに見つけることができました。
その隣には、明治の落語家・笑福亭福松の墓があります。平山半兵衛さんの墓は、ごろごろとした岩が積み上げられたてっぺんに、きれいに磨きをかけられた「箪瓢(たんひょう)」型の石が載せられている形で鎮座していました。
近寄って見せていただくと、うーん。実に見事な「箪瓢(たんひょう)」です。石には「平山半兵衛之墓」と刻まれています。墓前の花入には「はり半」という文字も見えました。
また、丸い穴をあけた石碑もあり、そこにも文字が刻まれていました。
「瓢箪のよき人前や散りもみじ」
この句は半兵衛さん自身の句でしょうか?それとも女将であった乾御代子さんによるものでしょうか?誰の作品とも記されてなかったのですが、とても優しい句であると思いました。
私は、お墓にそっと手を合わせ、逆さまひょうたんを愛したその人、おそらくユーモアのセンスにあふれた洒脱なお人柄であったろうその人に、遠くからお祈りをさせていただきました。
(1115日目∞ 12月8日)
※次回1116日目は奥田亮「でれろん暮らし」12月11日(月)にアップ。
1117日目は丸黄うりほ「ひょうたん日記」、12月12日(火)にアップします。