ブルーにこんがらがって

 

 今年は暖かくなるのが早くて、神田川沿いの桜は、3月20日にはもうあちこち見頃になっていた。歩きながらその景色を愉しんでいるうちに、だんだん気が散りだした。

 理屈の上では、川の本流こそがいちばん低みになっており、周囲の道は多かれ少なかれそこに向かって下っているはずだ。ところが、川沿いを歩いていると、あちこちで、むしろ川から逃れるように低みを作っている道がある。どういうことだろう。低みに誘われるようにその道の方へ逸れていくと、行き止まりだったり、弧を描いて元の川に戻ったりする。

 理由はじきにわかった。神田川は、今と昔とではずいぶん流路が違っているのだ。

 現在の神田川の流れは滑らかで、川沿いの遊歩道を歩いていても向こうまでよく見通せる。けれど、明治・大正期の地図を見ると、昔の神田川(神田上水)は激しく蛇行しており、とても同じ川とは思えない。むしろ、現在の流れと一致しないところの方が多いくらいだ。

 かつて、不規則に折れ曲がる神田上水の周りはほとんどが田畑だった。その様子が一変するのは、昭和初期のことだ。この時期、大規模な改修工事が行われ、蛇行部分は滑らかな線でショートカットされ、川の周りは次々と宅地開発されていった。取り残された蛇行部分は埋め立てられ、あちこちが道路化された。その結果、現在、神田川のそばには、独特の曲がり方をした細道が絡みつくように走っている。すでに川ではないから「暗渠」とは言えないのだが、道の曲がり方に水の気配を感じることができる点では、暗渠に通じるおもしろさがある。

 たとえばJR高田馬場駅の西側、飲み屋の続くさかえ通りを西に歩いてみよう。鳥貴族の角で北に曲がり、清水橋を渡ると、神田川の左岸に出る。その少し先に、斜めに交差する道がある。カーヴの具合には、どこか誘うげなたたずまいがある。その誘いに乗って入っていくと、道はやがて元の神田川に突き当たり、駐車場から先には行けない。

 さかえ通りまでいったん戻って、今度は少し先の田島橋を渡ってみよう。ここは、東京富士大学の正門前だ。橋から上流を見ると、神田川をまたぐように中空に橋が架けられており、左岸と右岸のキャンパスをつないでいる。おもしろい意匠だ。しかしさらにおもしろいのは、渡った先の道で、ちょうど大学に沿って回り込むように低くカーヴしていることだ。半分ほど曲がると、大学の裏手に通じる細道が一本あり、川に向かって進んでいくと、柵に行き当たる。柵の向こうはキャンパス広場と神田川。

 川から離れてまた戻り、川で行き止まる。これらはいずれも蛇行の跡だ。神田川は、かつて清水橋の北側、東京富士大学の北側をそれぞれうねうねと曲がっていた。昭和初期に現在のようなまっすぐな流路が掘られたのだが、蛇行部分は道となって、今も建物の境界線をつくっている。東京富士大学は、旧神田川の蛇行に囲まれた、ひと続きの土地の上に建っているということになる。

【図1】明治・大正期の神田川の昔の流れ(高田馬場西側付近)。

 

 ここで興味深いのは、新しくできた直線の川の上に、まるで川の資格を与えるかのように橋が架かっていることだ。清水川橋も、大学のキャンパスをつなぐ橋も、かつては陸地だった場所にあるのだけれど、橋が架かると、現在の川筋の方がよっぽど川らしく見える。

 ところで、先に渡った田島橋は、神田川の改修とともに位置が変わっている。明治はじめの地図を見ると、右岸の戸塚村と左岸の下落合村を結ぶ道を渡すのがこの田島橋で、もともとは現在より東側に位置していたらしい。

 三遊亭円朝作の怪談噺「怪談乳房榎」では、この古い田島橋が、重信殺しの舞台となる。

 重信の妻おせきと密かに通じ合った弟子の磯貝は、重信をなきものにしようと企み、下男の正介と組んで、重信を蛍狩りに誘い出す。落合はかつては蛍の名所で「他の蛍と違って大粒にして、その飛び交うさまは明星の空を乱れ飛ぶかと思うばかり、また地に伏すところはきらきらとして草葉の露と怪しまれ」んばかりだった。いまの落合からはちょっと想像がつかない。そのかつての落合に正介と連れだって訪れた重信は、大粒の蛍の舞う景色を目の当たりにして、下戸なのについ酒を過ごしてしまう。帰り道、ひょろひょろしながら田島橋を左岸から右岸へと渡り、ちょうど今のさかえ通りにあたる旧道をJR高田馬場駅の方へ戻るのだが、ここはちょっとした小坂になっており、磯貝はその傍らで待ち伏せている。坂の西側はその頃「一面の薄で、榛の木がところどころにある小高い丘だから、その生い茂った薄の中に隠れておって、先生をやり過ごして竹槍でただ一突きにいたす」。磯貝は計画通り、酔った重信に襲いかかる。

 今では薄のかわりに飲み屋が立ち並んでいる。

 

【図2】明治はじめの神田川と旧道。落合から高田に戻るには、間島橋を渡り、現在のさかえ通りにあたる旧道を通らねばならなかった。待ち伏せに適した場所であったとも言える。

 

 1935年、神田川の改修とともに、橋は少し上流に鉄橋として架け直され、現在の位置になった。流路の変わった神田川に沿って工場が新たに増え、川の左岸は工場地帯となったため、戦後、田島橋の幅は拡げられた。この拡幅のことを新聞は次のように伝えている。

 「この鉄橋は落合地区の工場への近道なので、トラックなどの交通量が多いが、斜めの道に直角に橋がかかっていて、カーブをきりそこなった車が橋の親柱にぶつかったりする事故が絶えなかった。(中略)両側は八の字型にひろげるので、カーブがきりやすくなるし、これまで命がけだった歩行者も安心して渡れるようになると区ではいっている」(「今年中に幅を広げる 新宿区戸塚の田島橋」朝日新聞 1961年10月27日)。

 橋からよこざまに蛇行跡の道へと入る急カーブを、トラックの巨体は曲がりかねたらしい。

 今の田島橋を左岸へと渡りきると、道は三叉路になっている。右がかつての落合から戸塚へ向かう旧道で、左はかつての蛇行路。円朝作の噺の中で、重信は右手の旧道をひょろひょろ歩き、かつて少し下流にかかっていた旧田島橋を渡った。今のわたしは、橋を渡って左手に進み、幻の蛇行に合流する。

 東京富士大学の土地を回り込むようにうねっていた旧神田川の流れは、上流でさらに複雑さを増す。もう少し遡ってみよう。川は、東京富士大学と宮田橋公園の間を抜けて、今度は南から北へとうねる。現在の宮田橋公園の南側の道がその跡で、そこから駐車場を突っ切ってコンビニの前に出る。このあたりは道が下がり気味にぐるりと曲がっており、なるほど川筋だったのだなという感じがする。そこから今度はぐいと北上し、戸塚第三小学校を突っ切り、西武新宿線も越えて、現在の妙正寺川のところまで行く。激しい蛇行だ。さらにそこからまた南に向いて、下落合駅を北から南に縦断する。

【図3】明治・大正期の神田川の昔の流れ(戸塚・落合地区)。現在の街路のあちこちがかつての蛇行と重なっていることがわかる。

 

 駅の南側には広場があるが、明治・大正期までは、ここが激しくうねる旧神田川と妙正寺川との合流地点だった。二つの川が落ち合うので、あたりは「落合」と呼ばれた。川が合わさる低地では、たびたび氾濫が起こった。昭和初期に二つの川の流路は改修され、落ち合い場所は、現在の戸塚第三小学校の北あたりに変更された。それでもなお、この地域では水害による床上浸水がたびたび起こり、とくに1966年(昭和41年)6月の台風4号では大きな被害が出た。

 では現在の妙正寺川はどうなっているかというと、不思議なことに、途中で忽然と消えている。下落合駅の東、辰巳橋のあたりで、流れているはずの川はぷつりと切れるのである。おかしいなと思ったら、これは1960年代から80年代にかけて行われた流路変更の結果だった。妙心寺川はこの辰巳橋のところから、暗渠となって地下を走る。しかも、その暗渠には、神田川の一部が合流しているのである。どういうことか。

 神田川の少し上流に目を移そう。じつは神田川は、落合の少し手前でこっそり二手に分かれている。片方はわたしたちが目にしている川で、もう片方は暗渠。新堀橋の少し上流のところ、川の左側に穴が空いているのがその分岐点である。このような水路の入口を「呑口(のみぐち)」と呼ぶ。誰が名づけたのか、暗渠を酔漢の身体に見立てるような諧謔を感じさせる。それはともかく、この呑口から、神田川の一部はぐびぐびと飲み込まれ、地下へと潜る。この地下の分流は、先に書いた下落合駅の東、辰巳橋のたもとのところで、妙正寺川と合流する。分流と合わさった妙正寺川もまた、ここから暗渠となって東に向かう。この暗渠は長い。新目白通りの真下を走り、JR山手線を越え、ずっと先の高戸橋のあたりでようやく神田川の本流と落ち合う。高戸橋から上流を観ると、川の傍らに穴が開いているのが見える。これが二つの川の落ち合い場所で、分水路の「吐口(はけぐち)」と呼ばれている。

【図4】高田馬場分水路。

 つまり、神田川は新堀橋のそば、第一の「呑口」で分流となり、辰巳橋のたもとで妙正寺川と落ち合ってから第二の「呑口」に飲み込まれ、さらにそれが高戸橋の「吐口」で吐き出され、再び一本の神田川にまとまるということらしい。第一の呑口から吐口までの1460mの区間は「高田馬場分水路」と呼ばれている。

 これだけの大規模な分水路を作るためには、かなりの長さの用地を確保しなければならない。新聞は「地上はとても通れぬ 神田川 分水工事、地下へ潜行」と見だしを付けて、その事情を報じている。

 「都建設局は雨期を迎えて中小河川の改修を急いでいるが、川幅を広げたくても、両岸に高層ビルが立並び、用地を買収できないところがあり、窮余の策として道路の下に分水路を通す工事を進めている。「公共用地を利用したのがミソ」と同局の河川部改修課はいっている。(中略)四十一年の水害を繰返さないため、高田馬場付近では目下建設中の放射7号線の下に分水路を通すことにした。」(朝日新聞 1969年6月16日)

 この「目下建設中の放射7号線」というのが、現在の新目白通りにあたる。つまり新目白通りのために獲得した「公共用地を利用」して、地上の道路と地下の高田馬場分水路という二重のインフラを並行して作ったということらしい。大規模な整備には、1968年から1982年まで14年を要した。しかし、この分水路をもってしても、神田川と妙正寺川の水害は収まらず、現在ではあちこちに調整池が設けられて、降雨時の水量が調節されている。

 水面に影を落とす桜は、川を川らしくする。桜に見とれながら側道を歩いていると、川が蛇のようにうねっていたことも、分かたれたり落ち合ったりしていることも、ひととき忘れそうになる。けれど、じきに川から逃れていくような細い道が目に入って、気がつくと、また道草をしている。神田川の散歩は思いがけなく時間がかかる。ポレポレ東中野で映画を観るつもりだったのに、すっかり遅れてしまった。

(3/30/21)

参考資料:

東京都新宿区教育委員会(1983)地図で見る新宿区の移り変わり戸塚・落合編

三遊亭円朝「怪談牡丹灯籠・怪談乳房榎」(角川ソフィア文庫)

東京都建設局:高田馬場分水路(神田川・妙正寺川)https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000047320.pdf (PDF)